著者のエマニュエル・トッドは、フランスの歴史学者・人類学者である。彼は固定観念にとらわれない鋭い国際情勢の分析で、さまざまな予言を行ってきた。1976年のデビュー作『最後の転落』では、ソ連崩壊を予言した。2002年には『帝国以後』で米国発の金融危機を、2007年には『文明の接近』で「アラブの春」、2016年米国大統領選でトランプの勝利、ブレグジット(英国のEU離脱)などを予言し、世界に衝撃を与えてきた。そのことによって敵も多く作ってきた。
2016年に発表した『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』では、シャルリ・エブド襲撃事件を非難した「私はシャルリ」のデモは、表現の自由を謳うが実は偽善的で排外主義的であると断罪した。それまでのシャルリ社がどれほどイスラム教を創始した預言者ムハンマドを侮辱し、イスラム教徒を差別してきたかという最も重要なことが不問に付されているからだ。ちなみにトッドはユダヤ人である。この時のヨーロッパの世論もメディアも、トッドの「異論」を冷静に受けとめる状態になかった。「最初に取材を受けたのは日本の新聞でした」とトッドは語っている。
2022年にロシアのウクライナ侵攻が始まって以降、自国フランスでは、世論と相容れない彼の見解を発表することが困難になったため、取材はすべて断ったという。そのような情勢の中で、2024年、『西洋の敗北』が世界25カ国で発刊された。内容がロシア寄り(?)と見なされたのか、ロシアではベストセラーになった。「ところが」というか「やはり」というか、唯一英語版は発刊されていない。米国にとっても英国にとっても、国民に知られては困るような事実がこの本の中にあるということだ。
私たち日本人も、情報量では日本は世界有数の国だと思うが、そのほとんどが西側の、つまり「欧米で許容されたもの」に限定されているという自覚が必要だと思う。
「反戦」を語る人たちの中にも、ウクライナ戦争とガザ戦争を同列かつ同質に扱う人を見かける。ここではっきりさせなければならないのは、イスラエルは核を保有する世界有数の軍事大国でその後ろには米国がついているということだ。一方、ハマスも含めたパレスチナ人民は旧式で粗末な武器、いやそれさえもなく、民族浄化を掲げるイスラエルの非道な爆撃を連日受けているのだ。そもそもイスラエルが一貫して行ってきた「武装した入植」が侵略そのものだということだ。
ウクライナ戦争の場合、ロシアの侵攻以前からウクライナの軍隊は同盟国(米・英)の軍事顧問たちに軍備強化を委ねていた。また高性能兵器が大量に送られており、NATOの「事実上の加盟国」となっていた。1990年のドイツ統一の時点で、「NATOは東方に1ミリも拡大しない」という約束がゴルバチョフ大統領、ベーカー国務長官との間で交わされ、その翌日にはコール西独首相も承認していたのは有名な話だが、その約束とは裏腹に東欧諸国は軒並みNATOに加入した。ロシアとプーチンの気持ちを慮(おもんぱか)っても仕方がないが、屈辱を感じたのは確かだろう。そして2008年にブカレストで開かれたNATO首脳会議で「ジョージア(旧グルジア)とウクライナを将来的にNATOに組み込む」という宣言がなされた。これは欧米によるロシアに対する「宣戦布告」と取られても仕方がない。ロシアにとっては絶対に譲れないレッドラインを踏み越えると宣言したのだから。
米国の国際政治学者で元軍人のミアシャイマーは「冷静にリアル・ポリティクスの観点からみると戦争の原因はプーチンやロシアではなく、アメリカとNATOにある」と断言しており、多くの賛意を集めている。
西側のニュースだけにとらわれずに客観的な視点で見れば、プーチンにとってのウクライナ侵攻は、ロシアがNATO諸国に軍事的包囲されてしまうことへの防衛的対応だったと言える。もしそうだったとしても戦争的手段は絶対反対である。戦火による犠牲が集中するのは人民であり、それはウクライナもガザも同じである。
『西洋の敗北』は400ページを超える大著で、その内容をすべて語り尽くせるわけもなく、ここではウクライナ戦争に限定して言及した。しかし、この本で気付かされたことは山ほどあった。ロシアが経済的にも社会的にも著しく発展し、安定していることには驚いた。殺人発生率も自殺率も激減、乳幼児の死亡率も激減し、米国よりも低い。とかくロシアのGDPの低さが強調されるが、GDPという指標じたいに問題が多い。一方、欧米の没落ぶり、衰退ぶりの激しさにも驚いた(30年間賃金が上がらなかった日本は言わずもがなだが)。ごく一例だが、かつて七つの海を支配した「大英帝国」が、食生活の乱れと医療制度の予算削減で、子どもの平均身長が隣国のフランスやドイツに比べて成長に遅れがでている。身長は、病気、感染症、ストレス、貧困、睡眠の質などの重要な指標である。平均余命の伸びも顕著に減速しているという。その原因は、新自由主義政策下で、鉄道・水道を民営化し、公共サービスを外部委託してきたことにある。なんと高齢者や障がい者向けの社会福祉サービスの大半がチャリティ団体の運営に委ねられている。国は責任を取らないというわけだ。それは日本の行く末を見るようだ。
最後に『文藝春秋』2025年5月号にトッドが発表した『米欧の分裂と日本の選択』からの抜粋(要約)を紹介したい。
「ロシアのウクライナ戦争の軍事目標は、当初は『ウクライナの中立』と『東部・南部4州の併合』だったが、NATOの介入の強化に応じて、目標の上方修正をするだろう。ロシアにとっては国境線を守る防衛戦争だからである。ドニエプル川の東岸、オデッサ、親ロシアのウクライナ政府の樹立までつき進むだろう」
加えて、親日家トッドの日本への忠告は「日本は核武装せよ」である。到底受け入れられない主張であるが、彼がそういうのは「核の傘は幻想」であり「米国が日本を守るなどありえない。日本は対米自立すべき」だからである。
世界の知性がこのようなリアル・ポリティクス的思考だけで語る様子は残念でならない。「今こそ国境を越える人民的連帯を」などと思うが、どうしたらいいのだろうか。(想田ひろ子)