
被爆80年、沖縄戦80年。ヒロシマ、ナガサキは、莫大な放射線、熱線・爆風に襲われ、沖縄は「鉄の暴風」だった。今も世界は、核使用による威嚇にさらされ、沖縄・南西諸島へ軍備増強が進む。
「保有を前提にした核抑止論ではない、1発たりとも持ってはいけない」(被団協代表委員、田中煕巳)、「広がる大地には音がない、風がない、死の大地…」「人類は、核と共存できないと、はっきりわかった」(54年後、アラモゴードを訪れた長崎被爆者、作家・林京子)
1万発の核兵器
世界には現在、推定約9千~1万発の核兵器、弾頭があるとされている。米・ロがそれぞれ4000発前後、中国が500発、フランス290、イギリス220、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮も保有している。そのうち、即時発射体制にある核兵器は約4000発と推定される。
核兵器は、私たちの目に触れることはないが、その存在と使用の危機は日常にある。ウクライナ侵攻を巡り、ロシアは「NATОがウクライナに部隊を関与させるなら…」と再三「核使用」を示唆し、アメリカも「イスラエル支持」に、核使用を除外していない。「平和利用」という原発も世界に約430基、日本の原発は、稼働中11、停止中33、廃止6、廃止措置中20、建設中3基です。
核兵器禁止条約
2021年1月に発効した核兵器禁止条約は、「核兵器…の開発、実験、製造、保有…を禁止する」と明記した。批准した国・地域は73(2024年現在)、日本は署名も批准もしていない。「(核兵器の)終わりの始まり」になるのか。国際条約だけで核兵器が廃絶されるとは思えないが、半歩、一歩の前進だろうか。なぜ日本は禁止条約を批准しないのか。(『核に縛られる日本』田井中雅人/角川新書)。原発大事故はスリーマイル、チェルノブイリ、フクシマなどで起こってしまった。核兵器は、「まさか、使われない」ものだろうか。
原爆の開発
アメリカは1939年、世界に先駆け原爆(核分裂の巨大エネルギーを兵器、爆弾に使用)の開発を開始した。1942年8月から「マンハッタン計画」をスタートさせる。総額20億ドル(当時)の予算と計50万人の研究者・労働者を動員し、原爆開発が進められた。ウラン濃縮には、莫大な電力を必要とする。アメリカ西海岸のコロンビア川流域は、水力発電所が集中していた。
マンハッタン計画から3年後の1945年7月16日、ニューメキシコ州ロスアラモスのトリニティサイトで初の原爆の爆発実験を成功させた。この時点で、アメリカはウラン原爆1とプルトニウム原爆2を所有していた、実験はプルトニウム型原爆だった。破壊力はTNT火薬2万トンに相当した。残る2発、ウラン型(リトルボーイ)を広島へ、プルトニウム型(ファットマン)を長崎へ投下する。
30万人の人間、都市に投下
なぜ広島、長崎だったのか。広島には陸軍第5師団、被服支廠(補給施設)、陸軍船舶部隊などが置かれ、戦前は「軍都」と呼ばれた。「だから原爆が投下された」と言う人もいる。何年か前、ある映画監督の女性と話したとき、少し「論争」になった。彼女は、「広島は軍都だったから原爆を受けた」「ヒロシマには、その加害の意識がない」という…。それは、「後付け」理由のように思えた。師団、軍事施設、軍需工場や軍港があった都市は、広島だけではなかった。加害の意識が低かったのは全国どこも、広島に限らないだろう。
ロスアラモスの実験で、威力はわかった。では、「数十万人の都市、人間に」投下すれば、どうなるのか。当時、広島の人口は30万人余り。日本の植民地支配により、半島を追われた数万人の韓国・朝鮮人も含まれる。広島は、太田川支流「7つの川」が流れる平坦な市街地、概ね4平方キロほどである。この街、人に原爆を爆発させたらどうなるのか。
強力な放射線、熱線(高温火傷)、台風並みの爆風は、人間にどのような被害と影響を与えるのか。それこそ、アメリカが最も知りたかったことだろう。「検査するが、治療はしない」と言われたABCC(Atomic Bomb Casualty Commission原爆傷害調査委員会)は、被爆者の人体も含め「資料」を収集した。
アメリカの世論、最近のトランプも「原爆が戦争を終わらせた」と言う。1945年の8月上旬、日本は国力も軍事力も崩壊し、敗戦は既に明らかだった。しかし、初の原爆実験成功からわずか20日、ポツダム宣言の直後にアメリカは、広島、長崎に原爆を投下した。その最大の意図は実際に「原爆の威力と被害」を確かめ、世界に、とくにソ連に見せつけ、「戦後世界支配への主導権」を確実にすることだったのではないか。
核は本質的に生命に敵対する
「核は、生命に本質的に敵対する。フクシマ原発事故のとき、ヒロシマ、ナガサキに戻ったと思った。核は軍事・核兵器として開発され、広島・長崎で爆発した。突然、石段に影だけを残した人…。瞬時にすべてがなくなる。人間の想像力をこえる、あまりにも不条理な核との出会い。一方で『平和利用』として生き延びる。軍事と平和に境界はない」(2011年6月、小林圭二)。
命の根源を破壊する被ばく
1999年、東海村の原子力施設でウラン溶液が核分裂する事故が起こった。核分裂を起こしたウランの量は、わずか1/1000グラム。「パシッ」という音と青い光が走り、作業中の2人が8~20シーベルトの放射線を浴びた(8シーベルト以上の死亡率は100%、広島原爆の場合はおよそ500メートル範囲が約10シーベルト)。

爆発や熱線はなく、見えない放射線を一瞬に浴びただけ。しかし、その瞬間に2人は生命の根源である染色体を破壊され、細胞を再生する機能を失った。最新の治療を受けながら、なす術もなく皮膚も筋肉も内臓も、崩壊していく。2人は83日目、211日目に絶命した。(『朽ちていった命』被曝治療83日間の記録/新潮文庫)
「核と人類は共存できない」
私たちは、ヒロシマ、ナガサキの原爆、フクシマ原発事故を経験した。「まさか、核兵器が使われることはない…」「電気のために、原発は必要…」ということだろうか。広島型原爆の威力は、500メートル範囲の放射線10シーベルト(5以上は致死量)、地表の熱線は3000 ℃、爆風220~30メートル/秒である。
核や原爆、原発についての本は数えきれないほどあるが、2冊を紹介したい。

*『日本の社会主義』(原爆反対・原発推進の論理~加藤哲郎/岩波現代全書)
核と原発に関する~とくに「左派、リベラル」の諸問題。「社会主義、共産党的(固有の団体ではなく)」には、ソ連は「核エネルギーを平和に使うことができるのは、共産主義である。帝国主義は兵器に使う」と(国連で)演説した。原水禁運動が始まった1950年代、「人類は無限のエネルギーを手にした」「廃棄物はロケットで宇宙に捨てればいい」など、早くから根本で「核の平和利用」を是としていた。いまも、本質的に変わらないのではないか。
チェルノブイリやフクシマ以降の「転換」があるとすれば、たぶんに政治的対応という側面だろう。「新左翼」の場合も、反核は「核の本質、人類と核、その廃絶」というテーマよりも、「政治闘争」課題にされてきたのではないか。
*『原子力発電』武谷三男(1976年、岩波新書)
1970年代、リベラル、左派に大きな影響を与えた武谷三男~序文の冒頭から「原子力利用の長い道のりは、あせればあせるほど、ますます遠い見果てぬ夢となっていく。原子力は、まだ人類の味方ではなく、恐ろしい敵である」と、「利用論」から始まっている。
文中に『朽ちていった命』(東海村事故、被曝治療83日間の記録)、『トリニティからトリニティへ』(林京子)も引用したが、上記の2冊からは「核廃絶」「核と人類は共存できない」というのか、「安全なら」平和利用なのかという、戦後(今も)「リベラル、左派」に通底した、ありがちな矛盾を考えることができる。(博)(文中、敬称略)*写真は、人類初の原爆実験場「トリニティサイト」 本「社会主義の原子力観」「JCО東海村事故」「トリニティからトリニティへ」
