東日本大震災・原子力災害伝承館
東京電力福島第1原発事故から14年たった福島現地を訪ねた(6月23日~26日)。仙台空港からレンタカーを借り、常磐自動車道で「東日本大震災・原子力災害伝承館」に行った。常磐自動車道には、ところどころモニタリングポストが設置してあり0・2~1・8μ㏜と表示されていた。
東京電力福島第1原発がある双葉町に向かうにつれ、高くなっていく感じだった。高速を降り、「東日本大震災・原子力災害伝承館」に向かう。周りの田んぼは雑草が生い茂っていて、ポツンぽつんと建つ家は人が住んでいるところもあれば、廃屋になっているところもある。

問われない国、東電の責任
伝承館は、国が総工費53億円を全額実費で負担し、福島県の指定管理者である公益財団法人「福島イノベーション・コースト構想推進機構」が運営している。広大な敷地に伝承館の建物が建っており、周りは更地が広がっている。
まずビデオを見てから、職員の説明を聞く。展示はスロープを上がっていくにつれて東日本大震災が起こった後の、時間的な経過が分かるようになっている。3月12日~14日にかけて爆発した原発建屋の様子も、写真で展示してあった。原発災害による被害については展示してあるが、なぜ被害が起こったのか、国や東京電力の責任については全く触れられていない。「未来」や「希望」、「復興」のキーワードが気になった。
双葉郡で教師をしていた、70代の男性語り部の話しを聞く。地震から東京電力福島第1原発事故で経験し、防災の話しが語られる。地震が起きた直後、請戸小学校の生徒が学校から4キロ離れた大平山まで歩いて避難し、全員が無事だった話もあった。語り部の人は、埼玉県加須市に子どもたちと避難し、そこで子どもたちの抱えた悩みや苦しみに、共に向き合って共有したと話してくれた。
しかし話の最後は、やはり「希望」。東京オリンピックの聖火リレーが双葉町をスルーしていることを知った彼は、ランナーに応募して走る。「子どもたちに希望を与えたかった」と…。彼が走った沿道には、子どもたちは誰もいなかった。聖火リレーのトーチが用意してあり持たせてくれたが、原発被害を「無かった」「終わった」ことにするためのオリンピックだったと実感する。
この語り部には「マニュアル」があり、「自覚をもって口演」「笑顔で対応」などのほかに、「特定の団体、個人または他施設への批判、誹謗(ひぼう)中傷」は、内容に含めないよう求めている。事前に提出した原稿をもとに選定するとしているなど事前検閲とも言えるような内容であり、語り部が自由にモノを言えなくされている。

軍事につながる福島イノベ構想
伝承館の入口には様々なパンフレットが置いてあった。目につくのが「原発被災地への移住促進と起業」のパンフレット。広野町や浪江町など、事故を起こした東京電力福島第1原発に近い町への移住が促されている。移住してくる子ども1人に100万円が出る町もあると聞く。タレントの「なすび」さんを主人公に、放射線の「安全性」について描いた漫画も多数置いてあった。
「福島イノベーション・コースト構想」のパンフレット。構想の中核施設としてこの伝承館が建てられた。趣旨には「福島イノベーション・コースト構想(福島イノベ構想)は、福島県浜通り地域等の産業を回復するため、新たな産業基盤の構築を目指す国家プロジェクトです。国や福島県等が一体となりプロジェクトを推進しています」とある。この中身が大問題、「復興」の名のもとに、軍事転用される産業や研究者を呼び寄せてつくろうというもの。モデルになったのが、アメリカのマンハッタン計画(原子爆弾製造のためのプロジェクト)のハンフォードという町。軍事研究の拠点を、福島県浜通りで「復興」の名のもとにつくろうとすることに、本当に怒りしかない。まさにショックドクトリンそのものだ。

原子力災害考証館
23日は、いわき市の古滝屋という温泉旅館に宿泊。その日の夜、旧知の古滝屋の16代当主である里見喜生さんと食事をしながら歓談し、温泉につかって疲れをとる。
翌日24日朝、古滝屋の9階に設置された「原子力災害考証館」を見学した。官製の伝承施設では汲み取れない「声なき声」を伝えようと、2021年3月に、「民」の立場で原子力災害をとらえるため、里見さんをはじめとした人たちによって設立された。
浪江町で建物が解体され、商店街のまちなみが変化していくパノラマ写真や、東京電力や国の責任を問う集団訴訟に関する展示があった。特に目をひいたのは、大震災当時、小学生だった木村汐凪(きむらゆうな)さんのモニュメント。汐凪さんは、大熊町で津波に呑み込まれた。しかし、原発事故の影響で捜索ができず、彼女の遺骨の一部が見つかったのは事故から5年9カ月後のことである。このモニュメントは、汐凪さんのお父さんである木村紀夫さんが建てた。木村さんは家族3人を津波で亡くしている。資料には「津波で亡くなったのか、取り残されたから亡くなったのか」とある。

事故起こした加害性を問う
考証館は、公的施設では語られない「加害性」について問うている。原発事故の影響で亡くなった人や苦しむ人がいるのは、利便性や豊かさの追求に走り、原発を許容した社会全体に責任がある、自戒をこめて気づいてほしいということだ。

子どもと原子力災害保養資料室「ほよよん」
24日、次に見たのは保養資料室。関西で保養を行っている団体でつくる「ほよよん」が、里見さんの協力を得て古滝屋の一角を借り、2024年4月に資料室を設置した(考証館と同じ、古滝屋9階にある)。ここには、「保養」を知らない人にもわかるように、展示が工夫されている。入口のところに「保養ってどんなもの?」という一文があり、資料室を訪れた人の感想文(感想を書くノートが用意されていた)にも、「こんな取り組みが全国で行われていたことを初めて知りました」とあった。
宝塚保養キャンプの第3回と第4回の募集のチラシも、展示されていた。報告集(宝塚保養キャンプの報告集も複数あり)や、それぞれの団体で作ったオリジナルTシャツやタオルなどが展示されている。保養に関する書籍もあり、自由に読むことができる。

おれたちの伝承館
その後、津波遺跡・請戸小学校に行ったが、残念ながら火曜休館ということで見ることができなかった。外から写真だけ撮った。請戸港の方にも回ってみたが、漁船が何艘かつないであるだけで人影は見えない。数年前に来たときは、もっと活気があったように記憶しているが…。請戸小学校近辺も、まっさらな更地になっていた。墓地跡(以前は墓石が全部倒れていた)も、どこにあるのか分からなかった。
午後から南相馬市小高区にある「おれたちの伝承館」を見学した。「おれ」というのは、このあたりの高齢者が男女問わず使う一人称。私たちの伝承館という意味で、双葉町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」を意識してつけたということだ。
写真家の中筋純さんが発案し、近くで旅館を営む小林友子さんらが後押しした。開館は2023年7月12日。小高区の避難指示が解除されたのが、2016年の7月12日。小林さんは、この日にこだわり、この日に開けてほしいと訴えたという。

置き去りにされた牛たち
目につくのが、敷地の奥の空き地にある「矢印」のモニュメント。矢印がさす方向に東京電力福島第一原発がある。この伝承館は、芸術家の作品を主に展示してある。芸術の力で原子力災害を撃つという感じだった。建物の中に入り正面にあるのが、紙と竹でできた骸骨のモニュメントだ。これは、酪農家が原発事故でも「3~4日後には帰れるだろう」と餌を与えて牧場を離れたが、帰れなかった。避難できなかった子牛が、ひもじさのあまり飢えをしのごうと柱をかじって死に絶え、白骨化していた実話をもとに作られた。悲惨さが迫ってくるような作品だった。実際は、真っ暗な牛舎でハエが飛び交い、蛆にまみれた牛の死骸があちこちに散らばっていたそうだ。
写真の後ろにある「未来」は、有名な「原発は明るい未来のエネルギー」の看板の未来であり、こんな未来でいいのかと訴えているようだった。
1階の右側には、柵で覆われた一群の写真が展示してある。黄色い看板には「立ち入り禁止」の文字も見える。帰還困難区域の境界によくみられるものだ。柵の手前と柵の向こう側が、違う世界だということを示している。向こう側には、先祖代々の写真額をバックに防護服を着て立つ人の写真などが貼られていた。

最近、原発事故に関する書籍を500冊も寄贈してくれた人がおり、そのための蔵書室も増築されている。2階では、原発事故のDVD鑑賞などが出来る。炒りたての豆で沸かしてくれたコーヒーをご馳走になりながら、案内してもらった女性の話しを聞いた。小高区には、震災前には12000~13000人が住んでいたが、現在は約4000人。半数が高齢者、あとの半数が若い移住者だという。双葉町の原子力災害伝承館においてあった、移住促進のパンフレットを思い出した。

久しぶりの再会
おれたちの伝承館を出発し、浪江町経由で国道141号線を通って福島市を目指す。浪江町の吉沢牧場前を通った時、牛が何頭も寝そべっているのが見えた。原発事故後、線量が高い牧場だったため殺処分が命令されたが、牧場主は「人間の勝手で殺されてたまるか」と餌を与え続けてきた。その牛たちが未だに生きていた。
途中、津島地区を通った。民家がある道路の入り口は、バリケードで封鎖されガードマンが立っていた。線量計を持参しなかったので、どのくらいの線量かは分からないが、帰還困難区域だから相当高いと思われる。
4時半、福島駅前で宝塚保養キャンプに参加していた家族と合流した。就学前から来ていた子、小学生だった子どもたちも、大きくなっていた(私の身長と変わらなかった、私の身長をはるかに超えていた)。お母さんは、キャンプ当時よりも若くなったのではないかというくらい、元気いっぱいだった。「宝塚保養キャンプには、本当に感謝しかない」と何度も言っていた。
キャンプの一番の思い出を聞くと、大学生の女性が、特に女の子たちに人気があって皆が駆け寄って手を握ったのに、1人だけ握れなかった。その時は、私に駆け寄って私の手を握った。キャンプの最後の日に、一番良かったと思うことを聞かれた私が、「手を握れたこと」と答えたそうだ。私は、記憶があいまい。

Oさんとの食事
福島市内に住むOさんらと、餃子専門店で合流した。私とOさんの付き合いは2012年の夏に、同年の春休みに宝塚キャンプに来た娘さんといっしょに、個人的に保養をした。その時に会って以来だから13年になる。放射線のことは全く知らなかった彼は、東京電力福島第1原発が爆発したその日に、給水のために〇〇さんと一緒に3時間も野外で並んだ。その後ネットで勉強し放射線のことを知り、保養に取り組むようになった。
その出会いから、保養キャンプで子どもたちを福島に送って行ったあと自宅に泊めてもらったり、彼が職場の同僚と保養がてら関西に来るたびに、一緒に食事をしたりしてきた。
〇さんの周りで病気になった人とかいないかと聞いたが、最近はあまり聞かないとのこと。ただ彼の同期の人が、突然死や心筋梗塞で何人も死んでいるということだった。

福島を数年ぶりの訪問に
前回、私が福島を訪れたのは2018年。今回は、福島に住む人たちが、今どんな思いで生活しているのかを知りたいと思った。里見さんにそのことを聞いた。それぞれの思いはいろいろある。何も思わない人、悔しいなと思いながら胸に秘めている人、諦めている人。「汚染水放流反対」のプラカードを掲げて抗議をしている人。1人の意見を聞いて、それが福島の人々の思いだと判断しないで欲しい。
お母さんにも聞いた。「自分は、放射線が怖いと思って子どもたちにも、なるだけ放射線にさらされないようにしてきた。しかし放射能のことを外では話さないし、そのことが話題にも一切ならない。Oさんにも聞いたが、彼も放射能のことは、職場でも家でも一切しないということだった。
非常事態宣言を解除しないまま、年間20ミリSv(労働者安全衛生法では年間1ミリSv以下)もある地域への移住や起業をすすめる国や県の姿勢は、まったく間違っている。東京電力福島第一原発がある浜通り地区を、軍事産業の拠点にしようとする福島イノベーション・コースト構想を絶対に許してはならない。

放射線を気にする暮らし
私たちは、このような動きがどんどん進んでいることを広く市民に知らせ、反対の声を上げていかなければならない。一方で、福島や高放射線地域に住む人々のために、私たちにできることをあげれば、次のようになるのではないだろうか。
東京電力福島第1原発事故のことを、決して忘れない。放射線を気にかけながら生活している人々がいることを、決して忘れない。さらに、出来るかぎりの保養を行っていく、ということではないか。「無言の圧力」をかけられている人々であるが、たくましく生きている。いろいろな問題を乗り越えて生きてきた。これからも生きていく。(蒲)写真/「古滝屋の考証館」「柵のこちら側と向こう側」