「被爆80年のヒロシマ。しかし、世界は核兵器がいつ使われるかも知れないような状況にあり、また日本でもあろうことか、8月6日の広島で『核武装は安上がり』などと言う政党が出てきました。世界が核廃絶へ向かう道筋は、まだ見通せない。私たちは毎年、特にこの日、核廃絶の声をあげ続ける」(開会あいさつ:河野美代子さん)。
(「平和講演Ⅰ青木理さん」は次号掲載)

◇被爆証言 豊永恵三郎さん
もの凄い雲、幽霊のような人たち
豊永さんは、「被爆体験は短く、在韓被爆者、外国人被爆者援護のとりくみを中心に」と、次のように話した。
私は9歳のとき被爆、90歳に近くになった。被爆の問題と在外被爆者のことを話したい。当時、私の家は父が病気で亡くなり、母、弟と私の3人の母子家庭、しかも戦争中で母は大変だったろう。
6日、広島市のほとんどは崩壊、焼失した。私たちの家は広島駅の(約1キロ弱)北側にあった。ちょうどその日、私は中耳炎のため4駅ほどの東の鍼灸院に行くことになっていた。最寄りの駅を降りたときに爆風が来た。何が起こったのかわからなかったが、「新型の爆弾が落ちた」と聞き、駅に引き返した。
もの凄い雲が上がっていた。その下に家族がいた。ようやく市内から来た列車を見ると髪も身体も焼け、幽霊のような人がいっぱい。広島へ戻る列車はなく、歩いた。途中にある母の実家、おじいさん、おばあさんの所にやっと着いたのは午後も遅くなってから。「広島へ帰るな」と言われたが、翌日におじいさん、従弟と私が大八車を曳いて戻った。途中は大勢の火傷の人たち。
あの日、母は弟を連れ「家屋疎開」の作業に出ていた。8時15分は、作業の説明を受けていたとき。奇跡的に母も弟も大きなケガはなかった。逃げる途中、比治山を越えるとき、大勢の酷い火傷、けが人を見た。
ようやく家にたどり着き、風呂の水を飲んだ。後に「こんなに美味しい水」は、初めてだった。近くの山に避難したら、何十人もの火傷、ケガの人が畑に寝かされていた。その後、おじいさんの家にたどりついた。薬もなく、火傷した母には、キュウリやじゃがいも(当時は大変な貴重品)を大根おろしで摺り顔に塗った。弟は、ケガはなかったけど放射線を浴びた。1日、10回もの下痢が1週間続く。どんどん痩せ、足が立たなくなった。死ぬだろうと思った。しかし、私たちは避難もでき親戚の援助も受けられ、幸運な方だったかも知れない。
被爆者手帳を「在韓、在外」被爆者に
次に在韓被爆者の問題、とりくみ。ようやく1957年に、被爆者健康手帳が交付され被爆者の無料検診、医療費支給が始まった。しかし、日本政府は在外(在韓など)被爆者には適用しなかった。同じように被爆したのに。徴用工として無理やり連れて来られ、あるいは仕事を求め仕方なく来た人たち。私たちは、被爆者手帳の交付を要求し、裁判闘争を行なった。孫振斗さんが「密入国」し、最高裁まで争い勝訴した。
三菱の徴用工だった人たちが、「未払い賃金、強制預金を返せ」という裁判を行ない、それは30数件になった。ようやく、在外であっても手続きをすれば援護が受けられ、支給されるようになった。

◇平和講演Ⅰ 市田真理さん
「西から太陽が昇った」
第五福竜丸展示館(東京)には、全国から年間10万人ほどの訪問者がある。遠洋マグロ漁の木造船だった福竜丸は、1954年3月1日、南太平洋ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験(原爆の数百倍の威力)により、160キロの海域で放射性降下物「黒い雨」「白い粉塵」を浴び、乗組員23人が被爆した。
乗組員は「西から太陽が昇った」と驚いたという。マーシャル諸島は、戦前は日本が「委任統治」という支配をしていたところ。アメリカは、「世界と人類の平和のために、ここは核実験場になる。みなさんは避難してください」と住民に告げた。
その後、船は東京水産大の練習船に使われ、廃船となり東京湾に係留されていたが、「再び原水爆による惨事が起こらないよう」祈念し、展示館が建設された。市民が声をあげ、「1967年に原爆ドームの保存が決まったように、水爆実験による被害を記憶し、二度と起こさないために」と、保存されることになった。募金や署名も集められた。来年、50年になる。
2000回もの核実験
1945年7月に原爆を製造・実験し、8月6日、9日に広島、長崎に投下した。その時点では、核兵器はアメリカの独占物だった。ところが、すぐに旧ソ連が開発、製造し追いついた。さらにイギリスもつくった。その後、フランス、中国、朝鮮ほかが実験、保有するに至る。
世界は、2000回もの核実験を行なってきた。その「実験」の1回、1回は、ただの実験ではなく「核兵器を使用した」ということだ。
カツオ、マグロは、当時は高値がついた。アメリカの実験を知らずに、第五福竜丸は南太平洋の漁場に出かける。「延縄漁」~長い縄に針をたくさんつけ、何十キロも流していく。流すのも、引き上げるのも何時間もかかる。その漁のために、マーシャル諸島周辺まで出かけていった。
1954年3月1日の未明、まだ薄暗く水平線が見えるか見えないかのころ、乗組員の大石又七さんらが長い時間をかけ縄を入れ終わり、ひと休みしていたとき。突然、周りが光った。まるで「西から太陽が昇った」ようだった。「なんだ!西から太陽が昇るか!」と、みんな不思議に思った。大石さんは、何度も中高校生たちに証言してきた。生徒たちが「何色でしたか」と聞くと、「空が真っ赤に染まり、大きな夕焼けのようだった」と話していた。
巨大なきのこ雲、黒い雨、白い粉
「なんだ、なんだ」と言っている間に、空は黄色になり、また白く戻っていった。次に「ドドドドッ」という地鳴りのような音が来た。光を見てから音まで8分くらい。ピカッ、ドーンという距離感ではなかった。それを計算してみると、約180キロ、ほぼ東京~静岡間になる。広島からだと岡山くらいの距離、相当離れている。だから熱線を浴びる、爆風で吹き飛ばされることはなかった。
ところが、きのこ雲が崩れそれが「ワーッ」と追いかけてくる。雲が、空いち面に拡がり、雨が降ってきた。「黒い雨」と同じ現象だが、この時は「白いもの」が降った。やがて雨はあがったが、「白いもの」がパラパラと振ってきた。目に入るとチクチクし、はちまきをしている人は耳のところに溜まる。みんな「あー、仕事しづらいな」と言いながら、延縄を揚げた。
「怖かったですか」という質問に、大石さんらは「なんだ、これは。仕事がしづらいな~」と思い、口の周りに付くと舐めたりしたそうだ。熱くもない、味もない。みんな怖がることはなかった。3時間も「白いもの」を浴び続けた。もし危険とわかっていたら、逃げたり救助を呼んだりしただろう。
現在、展示館には船から回収した白い粉が、小さな瓶に入れて保管してある。その「白いもの」はサンゴのかけら。ビキニ環礁は29の島がある。環礁はサンゴ礁のこと。遠浅に環礁が幾重にも輪になっている。広島型原爆の1000倍という水爆の爆発により、海といっしょにサンゴ礁が砕かれ巻き上がり、それが降ってきた。それは、後に「死の灰」と言われた。ただのかけらではなく、放射性物質を含んだ欠片、粉塵だった。
乗組員に起こった異変
たまたまサンゴのかけらに付いたから視認できたけど、もっと細かい塵状のものは知らないうちに吸ったり、食べ物や水に含まれ食べ飲んだだろう。福島で講演をさせてもらったとき、どうしてもこのことを言えなかった。「被害はない」という専門家の見解もあるが、「では安全」とは誰も言えない。何世代にもわたって影響があるかも知れない。
焼津に帰ってきた乗組員たちに、異変が起こる。「なんか、ご飯がまずい」とか、「頭が痛い」とか。何日か過ぎると、「白いもの」が付いたところが黒ずんできた。1週間、10日すると髪の毛が抜ける。2000~3000mSVを受けたであろう人たち。広島に置き換えると、爆心800メートルくらいに相当するのではないか。
光を見て死の灰を浴びたのは、第五福竜丸の人たち、日本人のことだけではなかった。ビキニ環礁の人たちは「強制移住」させられた。ところが、第五福竜丸と同じくらいの距離にあったロンゲラップという環礁の人たちも、そうだった。子どもたちは「白い粉」が珍しく、競って集めたりした。そして「目が痛い、ピリピリする、黒ずんでくる」同じことが起きた。

「第五福竜丸事件」ではない
だから、私たちは「第五福竜丸事件ではない」こと、少なくとも「ビキニ事件」というか、さらに他の海域でも実験が行われたことも忘れてはならない。「第五福竜丸」について話しましたが、第五福竜丸事件ではないことをわかってほしい。
焼津に戻った船からは、マグロなどが市場に出され流通した。当時の新聞記事に「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」とある。それまでアメリカも、日本政府も「実験に巻き込まれた」ということを認知していなかった。さらに誰よりも驚いたのは、第五福竜丸の乗組員たちだった。映画『第五福竜丸』(新藤兼人監督)には、そのシーンがある。
マグロは市場に出され、東京築地市場では全頭検査を行ない、「放射線を確認」し、処分している。広島の人たちは、いつ知ったのだろうと、調べると中国新聞に出ている。その後、全国の市場で全頭検査が行われることになった。「原子マグロ、原爆マグロ」と呼ばれ始めた。
魚が貴重な蛋白源だった時代、魚が危ないと言われ、延べ約900隻もの漁船が、魚を廃棄することになった。こうしたことからも、「第五福竜丸事件」ではないことを知ってほしい。魚だけではなく、こんどは普通に降る雨からも放射能が検出される。日本では各地の雨を計測しているが、じつは世界中の雨が汚染されていただろう。雨は田んぼに、川に、湖に降り流れる。それは食べ物にもということになる。
全国から起こった「原水禁」署名
教科書には、「原水禁運動が杉並の女性たちから」とあるが、これも杉並だけではなく、全国各地で始まっている。展示館で保管している、いくつもの署名簿は、表題も大きさもばらばら。「原水爆禁止要求署名」「請願署名」「原水爆戦争反対」もある。市民が、やむにやまれぬ気持ちで始めたことがわかる。
当時、日本の人口は約8000万人。3200万筆の署名が集まった。そのうち広島県民は、110万筆だった。杉並の場合は区議会に請願、決議。そして「原水爆禁止」のワンイッシューで多団体共闘、集計に至っている。いわゆる杉並モデルになった。「発祥の地」と言われる所以は、そこにある。
広島の場合は、少し違った。「ビキニの人たちだけが言われるのはおかしい」「広島の被爆者は10年後も、こんなに苦しい思いをしている」「国際社会に広島の現状を伝えたい」という趣旨になっていた。「百万署名」という目標を掲げ、それを達成したのも、広島も女性たちが中心になった。当時8月5日に89万筆だったのが、20日には100万を突破した。3000万筆を超える署名が、国連総会に提出される。
「私を最後にしてほしい」
1955年8月、広島で第1回原水爆禁止世界大会が、翌年には長崎で開かれた。それまで「プレス・コード」で知られなかった「原爆の実相」「被爆者の苦しみ」も、世界に届くようになった。1956年8月には、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の結成に至る。それを後押ししたのは、原水爆禁止を願う市民の力でもあった。
ビキニ環礁でアメリカの水爆実験に遭い、半年後に東京の病院で死去した久保山愛吉さんが、「原水爆の被害者は、私を最後にしてほしい」と言い残し亡くなったことを忘れないでおきたい。私たちは、展示館を訪れる子どもたちに、この言葉をかならず伝えるようにしている。願いは、まだ叶っていない。(要旨/編集委員会)
