
2024年のノーベル平和賞は、「日本原水爆被害者団体協議会」(被団協)が受賞した。日本国民の喜びと世界中からの祝意を受けた。しかし、同年3月にアメリカ映画『オッペンハイマー』が日本で公開された。
ロバート・オッペンハイマ―は、アメリカの原爆開発計画(マハッタン計画)開発部門の責任者だった。映画はオッペンハイマーの半生や、アメリカ原子力委員会での証言を中心に描かれており、3時間もの冗長な映画だ。
コンセプトは、「日本への原爆投下は、戦争を早く終わらせ、日米の犠牲を少なくする。オッペンハイマーは水爆開発には反対だった」というものだ。原爆開発の肝というか、ウラン濃縮の過程や「509特別爆撃隊」の訓練の様子などは出てこない。ヒロシマ・ナガサキの被害の様子も描かれていない。
著述家の菅野完のユーチューブで知ったことだが、アメリカは原爆投下実験の一環で「パンプキン爆弾」(長崎に落とされた「ファットマン型」で黄色く塗られていた)を日本各地に49個落としている。福島県の浜通りには3発落とし、1発は小学校に落ち、小学生の犠牲者が出ている
パンプキン爆弾の実験を知り、日本の原爆開発にあたっていた理化学研究所の仁科芳雄博士などは、原爆が日本に投下されるのを予見していたのではないか。
160人余が「二重被爆」
8月6日、ヒロシマで約14万人が、9日ナガサキでは7万4千人人が亡くなった。さらに、ヒロシマ・ナガサキで「二重被爆」した人は、165人と推計されている。
この『ヒロシマ・ナガサキ~二重被爆』は、2006年3月に完成した「二重被爆」というドキュメンタリー映画が下地になっている。著者の山口彊は、1916年長崎生まれ、この映画に出演した当時90歳。その人生を語りながら、なぜヒロシマ・ナガサキで被爆し、生きながらえたかを語っている。中学を卒業した山口は、1934年3月、長崎三菱造船に入社。主に商船やタンカーの設計部門で働いた。英語が好きだったため、独学で英語も勉強していた。
長崎は、広島と違いアメリカ軍の空襲を受けている。最初は1944年8月11日、2度目は45年4月26日で120名の犠牲者がでている。戦況が悪くなるにつれ、男子は戦争に駆り出され、下関、神戸、横浜などの三菱造船所に応援出張を命じられた。1945年5月上旬から3か月間、同僚と3人広島へ出張することになった。山口たち3人が赴任した5月の広島は新緑の緑につつまれ、戦時下とは思えない穏やかな状態だった。
広島に着いた、その日から広島造船所に出社する。彼らの仕事は、漁船くらいの小さな輸送船をつくり、満州や朝鮮から物資を日本に運ぶという目的だった。6月に呉に爆撃機が殺到し、呉は壊滅状態になった。さらに広島に近い岡山や福山は連日攻撃されていたのに、広島は相変わらず静かだったそうである。
6日被爆、7日に長崎に帰任
3カ月間の出張が終わるころ、彼ら3人の「長崎帰任が8月7日」と上司から伝えられた。前日の8月6日、帰任の挨拶をするために広島の会社に行こうと、バス停でバスを待っていたが、忘れ物を思い出し寮へ帰った。この時間のロスでバスに乗れなくなったため、電車で会社に行くことにした。江波という駅で下車し歩き出した山口が、ふと腕時計を見ると午前8時を回ったところだった。
その時、女の人と出会う。B29が飛んでくる音がかすかに聞こえたそうだ。女の人が怖そうに空を見上げた。山口も空を見上げると、二つの落下傘が落ちてくる。「何だろう」と思った瞬間、白い光が満ち膨張する大火球を見た。大爆発のあと、ものすごい爆風で身体は吹き飛ばされた。芋畑で何時間か気を失っていた。
空が暗く成り始めたころ、自身の身体がひどい火傷を負っていることに気が付いた。山口さんの文章から引用する。「左耳に激痛が走った。内耳が破壊されたようで音はまったく聞こえなかった」「髪の毛はすべて燃え、顔も首筋もとろけており、ひどい火傷を負っていることがわかった。左腕は焦げていた。これが次第に腫れあがり、しまいには皮が剥げ、垂れ下がりはじめた」。
7日の朝、会社の上司から「己斐駅から避難列車が出る」という話を聞き、長崎へ帰省することにした。7日午後1時に己斐駅出発する避難列車に乗るため山口はひどい火傷を負いながら、広島市内の惨状(死体の山、橋の崩壊)の中を己斐駅にたどり着く。
予定通り避難列車は午後1時ころ出発、翌8日の昼過ぎ長崎に到着する。山口は火傷の治療をしてもらうために三菱病院の分院に向かったが、空襲警報発令中で誰もいない。やっと知り合いの眼科医に出会い、消毒だけをしてもらい実家に帰りついいた。
やっとの思いで家に着くと、母親から幽霊と思われたらしい。広島での爆弾から、生きて帰ってくるとは思わなかったようだ。両親に、広島がたった1発の爆弾で壊滅したことを話すのだが、全然信じてくれなかったそうである。
久しぶりに自分の家で妻と息子と3人でゆっくりきると思っていたが、近所の住民たちが次から次に広島の様子を聞きにきたという。翌9日、高熱と悪寒に侵されていたが、山口は「会社に報告しなければ」という責任感から、家の近くの造機設計部第二事務所に出社。会社の社員たちに広島の惨劇を話した。
そのとき再び閃光が
上司である課長に説明している時にピカッと閃光を感じ、「あっ!」と声が漏れ、机の下にもぐりこんでいた。きのこ雲を見上げながら山口は家に飛んで帰り、妻と息子の無事を知って座り込んでしまった。
山口は、2010年93歳で亡くなる寸前まで、核兵器廃絶を訴え続けた。亡くなる10日ほど前に、映画『ターミネーター』や『タイタニック』などを監督したジェームズ・キャメロンが、山口が入院していた病院へ見舞いに行き、「核兵器を二度と使ってはならない」というメッセージを伝えるために、「被爆をテーマにした映画を作りたい」と構想を話した。
私も、いま一度度、長崎を訪れたい。ぜひとも爆心地公園にいきたい。公園の横に川が流れ、川の方へ降りていくと土手のところに、被爆当時の家の瓦やレンガ、ガラスなどが埋没しているのが見えるそうだ。階段を下りて行かなければいけないけれど、頑張って見にいきたい。(こじま・みちお)
