
世界の「中心と辺境」
日本の民衆は、フランスやアメリカやイギリスのような革命の経験がなく、社会通念の根底に、社会変革の理念や情念に貧しいという固定観念が強くあった。
内田樹の『日本辺境論』(2009年、新潮新書)は、歴史を振り返り世界の中心と辺境との関係で、この領域を痛快に解き明かしてくれるユニークな日本論、日本人論だ。それでいて、一つ一つ内面をぐさりぐさり刺してくるし、考えさせられる。
国民的合意はあるか
オバマの大統領就任演説を紹介し、「清教徒たちも、アフリカの奴隷たちも、西部開拓者たちも、アジア・中南米の移民たちも、それぞれが流した汗や涙や血はいずれも今ここにいる『私たちのため』のものだ」…。このように大きな物語(「国民の物語」・アイデンティティ)をアメリカ人はもっていると…。だが、日本は「理念に基づいて作られたものではない」ので、国民的合意が存在しないという。(インディオへの襲撃と入植植民地主義についての無自覚は残念)
そして「私たちは、歴史を貫いて先行世代から受け継ぎ、後続世代に渡すものが何かということについては、ほとんど何も語らない」「何を語るかというと他国との比較を語る」という。極めつけが、「私たちはたぶん国際社会のために何ができるのか。これは明治維新以来、現代にいたるまで日本人がたぶん一度も自分に向けたことのない問いである」と手厳しい。
戦前は天皇、戦後はアメリカ
さらに「私たちに世界標準の制定力がないのは、私たちが発信するのは…『保証人』を外部の上位者につい求めてしまうから」だと…。これは「弟子」の発想であり、「辺境人」の発想だという。辺境であるがゆえに、常にどこかに「世界の中心」を必要とする。戦前は「天皇」であり、戦後は「アメリカ」だということになるのかなと思う。
「外部にある『世界標準』に準拠してしか志向できない私たちを、どうやってその呪縛から解き放つのか」が問われている…。こんなふうに自己を問うたことはなかった。どこかで、「借り物」で間に合わせてこなかったか。
内田は、決して「辺境人」を卑下するのではなく、「辺境人の学びは効率がいい」ので、とことん辺境でいこうではないかとあっけらかんと居直ってしまう。
いま、世界の成り立ちについての新しい物語を作り出すことが、世界中で求められている、そういった思想的格闘が世界中でなされていると思う。
「ファースト」思考に抗する道
ガザでのジェノサイドを2年近くも止められない世界。地球温暖化による気候変動は人類が住むことができる地球を、根底から破壊しようとしている。人類が協働してこの難関を突破せねばならないとき、分断と対立をあおる「〇〇ファースト」が世界を席巻しようとしている中でも、世界中で命がけの行動が続けられている。
今すぐ何ができるかという喫緊の問題はまったなしに重要だが、その課題に挑戦しながらも、一方で新たな物語を作り出すことの重要性を思う。岡真理さんは、そのことを「リアルポリテックスと文学(理念・原理)の違い」として語っていた。それは、現実の運動のなかから、その芽をしっかりと育てることかと思う。(啓)
