井戸謙一弁護士=右から2人目、8月30日、京都市

いま冤罪事件に対する社会的な関心が高まっている。大川原化工機事件では、警察・検察の違法な取調べや証拠のデッチ上げなどが明らかになったが、不当な長期拘留を認めた裁判所の責任も大きい。「司法の反動化と冤罪事件」をテーマに、湖東記念病院事件で無罪判決を勝ち取った弁護士の井戸謙一さんの講演会が開かれた(8月30日、京都市内)。主催は、「戦後最大の労働運動弾圧」といわれる関生事件の完全無罪をめざして活動している「労働組合つぶしの大弾圧を許さない! 京滋実行委員会」。
井戸さんは、1979年から2011年まで32年間の裁判官をつとめ、退官後は滋賀県彦根市で弁護士として活躍している。
講演では戦後の司法制度の問題点として、「裁判官が戦争責任を取っていない」ことが指摘された。治安維持法で有罪判決を出していた裁判官がそのまま戦後も裁判官を続けていた。1969年に最高裁長官となり、司法反動を推し進めた石田和外は戦前からの裁判官だった。
1960年代は、日本国憲法下で学んだ裁判官が増えたことによって、司法がもっともリベラルな時期だった。当時、原水爆禁止や安保問題に取り組んでいた青年法律家協会(青法協)には、約2000人の裁判官の内350人ほどが入会していた。これに対する政府・自民党による巻き返しが、1967年の「全貌」事件だった。右翼雑誌「全貌」が「裁判官の中の共産党員キャンペーンをはり、これに乗じて自民党が青法協攻撃をおこなった。1970年の脱退工作で100人ほどが辞めたが、200人以上が青法協に残り、全国裁判官懇話会を結成して司法反動化に対抗した。
裁判官の人事は、戦前は司法省が握っていたが、戦後は最高裁人事局が掌握した。裁判官の中で「支配する側」と「支配される側」に分断されたのだ。
1970年頃、全国で学生刑事事件が激増した。その審理方法を巡って、警察を使って学生を弾圧した東京派と、警察を入れずに話合いを進めた大阪派とが対立した。1978年から始まった特別研鑽で新任判事補は東京地裁に行儀見習に行くことになり、徐々に東京派が力を増していった。
井戸さんが裁判官に任官した1979年はそのような時期だった。当時は全国裁判官懇話会が健在で、裁判官の自主的勉強会が各地にあった。また各裁判所の職員の任命・監督などの司法行政事務を処理する裁判官会議が機能していた(現在は裁判所長の権限で執行)。その頃の勾留請求の却下率は10%程度だったが、90~2000年代にはほぼ0%になった。保釈率も50%程度だったのが、90~2000年代は10%台まで低下した(ここ数年は、勾留請求却下率・保釈率ともやや上昇している)。
現在、裁判官の自主的な団体は消滅し、自主的な勉強会もほとんど存在しない。裁判官の世界では一枚岩のヒエラルヒーが完成し、若い判事補に裁判所の主流の価値観が埋め込まれている。これが大川原化工機事件を生んだ土壌となっているのだ。
また井戸さんは、「裁判官の無答責」について言及した。裁判に欠点があったとしても、裁判官の責任を問わないとする判例が「最高裁s57.3.12判決」で確定しているが、最近の動きを見ると変化の兆しが感じられるという。昨年10月、静岡地裁は袴田事件の無罪判決で証拠のねつ造を認定した。また同月、最高裁はプレサンスコーポレーション事件では、取調べの録音・録画の全面開示を命じた。昨年8月には名古屋高裁が大垣警察市民監視違憲訴訟で原告の請求をほぼ全面的に認容し、公安警察の情報収集活動を違法と断罪した。
今後は再審法の改正し、取調べへの弁護士立ち合いを実現して人質司法からの脱却し、日本の刑事司法を国際レベルにしなければならない。いずれは弁護士経験者から裁判官・検察官を任用する法曹一元制にキャリアシステムを変えなければならない。
講演の最後に井戸さんは「裁判をするのは裁判所ではなく、裁判官個人である。裁判官個人の責任を明らかにする必要がある。メディアも市民も裁判官個人の責任を追及すべきである」と強調した。(塚本)