カヌー 松田ヌ浜から出艇

辺野古のゲストハウス「クッション」のロッカーの上には今も、亡きNさんの抗議船用の長靴と衣服がそのままに置かれている。
「やあ、すみやん。よく来たね」と毎回、「クッション」でニコニコと笑顔で迎えてくれるのがNさんだった。彼は、辺野古新基地建設阻止行動の抗議船船長だ。もう一つの顔は「クッション」の会計担当者でもあった。彼はもともと東京都水道局労働組合の役員だった。定年を迎えてから米軍新基地建設阻止行動に参加するため、自宅のある千葉県から、ほぼ月1のペースで辺野古に通っていた。
私とはなぜか気が合って、運転できない私のために名護まで買い物や集会参加のため車を出してくれた。私の携帯電話が間違ってごみと一緒に捨てられてしまった時には、ごみ収集場所に連絡を取ってくれ、その現場まで連れて行ってくれた。私が「クッション」でコロナに罹った時に、名護の病院まで送迎してくれ、一週間、隔離された「クッション」の部屋に夕食を運んでくれた。ありがたかった。

平和丸に牽引されるカヌー

部落解放運動との繋がり
ある時、名護に向かう車中で彼から「すみやんの本名は、住田一郎だよね。その名前にどこかで聞いた記憶がある。よくよく考えてみると、組合の部落問題学習会であなたが投稿した朝日新聞『私の視点』(2001年6月2日付)を批判的に扱う学習会だった。あの時の投稿者が、すみやんだったとは奇遇だよな」と聞かされた。「辺野古で、私の投稿が話題になるとは」と驚いたものだ。
確かに、私は辺野古でも部落出身者で部落解放同盟員として活動していると話してきた。辺野古の新基地阻止行動への参加者には、ヤマトでの教員経験者も少なくない。定年者も多く、彼らが現役時代は部落解放運動との接点も数多くあり、糾弾闘争の現場経験者もいた。部落問題の話をしているうちに、概ね、彼らが部落解放運動に少なからず違和感のようなものを抱いていたこと、同時に、その違和感を誰かと語り合い、深めていく機会を持つことがなかったことも知った。
同じカヌーメンバーであった埼玉県の養護学校教員であったMさんからも、「すみやんから、解放運動について講演会を聞きたかった」とも声かけられていたが、残念ながら彼も事故で亡くなってしまった。彼はカヌーでの阻止行動中も物静かに仲間に対応し、その場を和ませてくれていた。前にも書いたが、彼はヘビースモーカーで休憩のため島に上陸すると、素早くたばこを取り出し、うまそうに吸っていた姿が今も目に浮かぶ。亡くなってから数年後、ゲート前テントの水曜日恒例の昼食バイキングの折、毎回差し入れしてくださるMさんが、彼の思い出を語ってくれた。彼の死を悼み、同人雑誌に追悼の詩を書いたそうだ。彼の辺野古での存在は、今も消えていない。

ともに見届けたい
抗議船の船長Nさんが脳溢血で倒れ、リハビリに努められていたが、昨年亡くなられた。お見舞いに行けなかったのを後悔している。せめて仏壇にお線香をと考え、お連れ合いに連絡したが、千葉の辺鄙なところでもあり、わざわざ来ていただくのも、とのご返事であった。
Nさん、そしてMさん。辺野古で出会った今は亡き人々。彼らと、もっと語りたかった。辺野古の工事が止まる日を、ともに見届けたかった。「クッション」のロッカーの上に残された、Nさんの長靴と服をみながら、思う。(住田一郎)*写真/カヌー隊は毎日、松田ヌ浜から大浦湾の工事に抗議に出る。帰りは平和丸に曳かれ引き上げる。