日比谷野外音楽堂を満杯にした「しょうがい者大フォーラム」=2006年10月31日、東京都千代田区

 友人から相談したいことがあると連絡があった。久しぶりに会ってみると、まるで幽鬼のようになっていた。体調が悪くて何も食べられず、2カ月で5キロも痩せたという。内科や整形外科に通院しているというが、持病の悪化とは思えない。「老人性うつではないか」とアドバイスすると、本人も「実はそう思う」とのこと。分かってはいるが、家族に「精神科に診てもらう」と言うと、「きちがい病院なんて行くな!」と強固に反対されて迷っているとのことだった。
今どきこんなことを言う人もいるんだなと思うのは、世間を知らない私の甘さなのか。10月25日に「しょうがい者大フォーラム」があった。既に18年間続いている。当初は日比谷野外音楽堂を満杯にした大フォーラムも、今は東京と群馬の会場をオンラインでつないだ小規模な企画に縮小してしまっているのが現実であるが、その内容は誇れるものだ。
先の参院選では「日本人ファースト」という主張で争われ、排外主義的な勢力の社会的影響力が大きくなっているが、外国人が日本社会で優遇されているのかと言えば、今も昔もそんなことはまったくない。日本に住む多くの外国人が隅に追いやられ、差別がまかり通っているではないかと怒りが込み上げてくるが、こんな主張に票が集まり、政府・自民党までがそのマネをし始めたと新聞記事にあった。
こうした転倒した思考法は恐ろしい。即座に「健常者ファースト」に直結していくだろう。国民民主党の玉木代表が「高齢者医療、終末期医療を見直し、尊厳死を法制化して医療給付を抑えることが、日本経済を活性化し、国民の賃金上昇につながる」と発言した。まさに「日本人ファースト」思考の拡大だ。「日本人を大事に扱う」と言いながら、人びとをズタズタに分断する。
この思考法が国政のみならず、地方行政にも反映する。群馬県桐生市の生活保護受給者への扱いもそうだった。千葉県松戸市のALS介護保障訴訟では、市は「妻が介護すればよい」と公的な介護を行うことを拒否した。埼玉県吉川市(現大崎市)では、全身が動かず人工呼吸器をつけた患者が文字盤を利用して介護の必要性を必死に訴えていたのに対して、市の職員が「これ、時間稼ぎですか」と侮辱する発言を行った。
しかし、そのような行政による差別が問題化されると、「殺処分でいいやん」「生かしておく理由がない、一思いに殺してやれよ」といった書き込みがネット上にあふれかえったことが、大フォーラムで報告された。世論がこのようにして形成され、拡大していく時代なのだ。
現在、日本国内の精神科病院には約27万人の入院があり、その内1万2000人以上が身体拘束されている。これは海外の精神科病院と比べて、数十倍、数百倍という数字である。病院側は「患者が暴れるから仕方がない」と説明するが、「暴れる」というのは虚偽が多く、実際には病院職員の都合で拘束されることが多い。手足だけでなく腰部も固定され、身動きがとれないままエコノミー症候群で何人も殺されている。関西に住む私たちにとっても遠いところの話でない。兵庫県の明石市や神戸市でもこうした事例が起こっている。患者に屈辱感を与えて病気が治癒するわけがない。心の傷は広がるばかりだ。
最近は安楽死を希望した人のドキュメンタリー番組が放映されるようになった。「一つの人生の選択」ときれいごとで描かれているが、生きるために必要な施策や医療のあり方を伝えずに、偏った死生観のみの紹介となっていないかと懸念される。実際に「死」を考える難病者たちの中には「家族に迷惑をかけたくないから」と言う人もいるのだ。また政治家や「世間」が、「税金のムダ遣い」「日本経済の足を引っ張る存在」として唱える「障害者不要論」がある。このような現状が、生をあきらめる圧力となっていないだろうか。
否定的な話ばかりになってしまったが、優生保護法裁判など勝利している裁判闘争も多くある。小さな声を積み上げて、「あきらめないことが勝つこと」を障がい者や難病者の闘いにおいても合い言葉にしたい。10月25日の大フォーラムの報告は次号で。(朽木野リン)