
三島由紀夫没後から10年の1985年、ポール・シュレイダー監督、緒形拳主演の日米合作映画『Mishima A life in Four Chapters』が公開された。日本では、三島の夫人である平岡瑤子さんの抗議により上映されなかったが、今年10月30日、東京映画祭で45年ぶりに公開された。
その頃(80年代)、街に増え始めたレンタルビデオ店でビデオを借りてきて観た記憶がある。内容はほとんど覚えていないが、緒形拳の演技が真に迫っていたのが印象に残っている。
1970年11月25日、私は高校2年生。三島由紀夫の小説も読んだことなく、どういう人物かも知らなかったけれど、ニュースで自衛隊員が演説する三島に野次を飛ばしていたのと、当時は発行されていた『朝日グラフ』が生々しい現場写真を掲載していたのを憶えている。全共闘の「兄ちゃんら」は、「三島に先に越された」とか言っていたし、佐藤栄作・首相(当時)は、「三島は気が狂ったのか」(ママ)と言ったそうだ。
先ごろ、菅野完氏のユーチューブ番組で三島由紀夫生誕100年であることを知り、三島由紀夫のことを書いてみようかと思った。

大蔵省やめ作家活動へ
三島由紀夫、本名は平岡公威。静岡県の三島で、文学同人の集まりに行っていたから三島由紀夫というペンネームになったらしい。三島の祖父、平岡定太郎は兵庫県加古川の農民出身の官僚である。もちろん東大出のエリート。三島の父、梓も東大出のエリート官僚である。三島は学習院から、1944年無試験(推薦)で東大法学部に入り、卒業後大蔵省に就職した。
三島は、生まれてから12歳になるまで母親の倭文重(しずえ)から離され、祖母夏子に育てられた。過保護に育ったと思われる。猪瀬直樹のペルソナによれば、祖母のことを「おばあちゃま」、母親を「おかあちゃま」と呼んでいたらしい。
さて、大蔵省に入った三島であるが、わずか9か月で大蔵省を辞め、作家活動に専念する。三島の作品で有名なのは、なんといっても「仮面の告白」「金閣寺」と思うけれど、私は「金閣寺」しか読んでいないし、あの幻想的な小説は好きになれなかった。同じ金閣寺をモチーフにした水上勉の「金閣寺炎上」のほうが、金閣寺に火をつけた林承賢の苦悩をよく描いていて感動した。
男性的権威と滅び
しかし、さすがにノーベル文学賞候補になった作家だ。戯曲も書いているし、歌舞伎の演出もしている。1954年に起こった近江絹糸の労働争議をモチーフにした『絹と明察』という小説も書いている。ただし、労働者側に立った小説でなく、経営者の駒沢善次郎がどういう人物であったかを描いている。
三島自身この小説の意図は、「日本及び日本人というものと父親の問題」「父親、つまり男性的権威のいちばん支配的なものであり、いつも息子から攻撃を受け、滅びてゆくものを描こうとした」(「絹と明察」の解説文より)と述べている。また、三島は文学的才能のみならずボディビルや剣道などにもおのれを律し、完全主義で臨んだ。私は観ていないが、映画『憂国』の切腹シーンは真に迫るものだそうだ。
10・21反戦デーと「盾の会」
1969年5月12日、三島は東大全共闘との討論会に臨んだ。ドキュメンタリー映画でその様子をみたけれど、タバコの吸い方もカッコよく完全に三島の勝ち…。その討論会が行われる前年の1968年10月5日、「楯の会」が結成されている。新左翼の「10・21国際反戦デー」街頭闘争の高揚をみて、共産主義革命勃発の危機感を覚えた三島が、民族派学生を集めて祖国防衛隊として結成したのである。
当初「楯の会」学生班長は持丸博という人だったが、持丸は個人的事情により学生班長を辞めた。(これは三島の当てが外れ)持丸と同じ早稲田大学の森田必勝になった。保坂正康の『三島由紀夫と縦の会事件』によると、森田は三重県出身で両親はなく、お兄さんに育てられたそうだ。
「楯の会」は80名ほどの組織となり、自衛隊へ体験入隊し、軍事訓練をつんでいった。そのような団体は自衛隊にとってもよい団体で、市ケ谷の駐屯地にも警戒されることなく入って行けたのだろう。
三島は「楯の会」をつくった時点で、自衛隊に憲法改正の決起を促したが、たぶん受け入れられないだろうと見越していたのか。自身の死にざまを「切腹して見せる」という願望があったのかも知れない。

市ケ谷駐屯地 演説と切腹
1970年6月13日市ケ谷駐屯地に乱入し、自衛隊員の決起を促す計画の骨子を森田、小賀、小川らと決定した。6月21日、人質に東部方面総監でなく、32普通科連隊長(戦前の近衛連隊)にすることに。7月5日、決行日を11月の「楯の会」の例会の日とした。9月9日、神奈川大卒の古賀浩靖も突入メンバーとなる。11月3日「自決するのは自分(三島)と森田にする」とメンバーに伝えた。
11月21日、決行日の25日は32連隊長が不在と分かり、益田東部方面総監を人質にすることに。すぐに三島が益田総監に電話、25日午前11時に面会をとりつけた。
11月25日午前11時前、ほぼフリーパスで駐屯地に入った。総監室に招かれた三島らは11時10分ころ益田総監を羽交い絞めにし、「自衛隊を本館前に集合させよ」と要求書を突きつけた。
12時頃バルコニーに出た三島は、集まった自衛隊員を前に演説を始めるが、自衛隊員から「ばか野郎」「ひっこめ」などの野次を飛ばされた。この様子を映したテレビニュースを観た民族派が、よく後に続かなかったことだと、今になって思う。三島は最後に「よし!俺は死ぬんだ。憲法改正のために立ち上がらないという見極めがついた。自衛隊に対する夢はなくなったんだ。それではここで天皇陛下万歳を叫ぶ。(皇居に向かって)「天皇陛下万歳!万歳!万歳!」と三唱、総監室に戻り、総監室の外の廊下で切腹したという。三島に続いて、森田必勝が切腹した。三島、森田の介錯は古賀が行なった。
あれから55年。高校生の頃の私は、「憲法改正のためのハードルは高い、生きている間に憲法改正の発議はありえない」と思っていた。ところがいまや、日本は憲法改正目前の状況になってしまったのではないか。(こじま・みちお)
