
午前7時30分、テント2では、朝のミーティングが行われる。当日の監視船の責任船長、カヌーメンバーの面々が県内外から集まる。この場に欠かせない一人がNさんである。Nさんは船長でもあり、カヌーメンバーの一員でもあり、テント2における細々とした仕事(雑務も含め)も担っている。船長としてのキャリアは長く、優れた操船技術を持っている。
海保に立ち向かう
数年前に、私は彼女の監視船の補助員をしたことがあった。その日の大浦湾は荒れ模様であった。海保のGB(ゴムボート)から不当な、監視船確保の警告が発せられたが、その警告に抗うかのように彼女は外洋に向かって全速力で船を発進させた。大波の中、疾走する船上でバランスを崩さないように、私は船首のロープを固く握りしめていた。高い波を通過するたび、身体は宙に浮き、次の瞬間尻が思い切り床にぶち当たった。
海保のGBも必死に追いかけてきたが、操船技術に勝る彼女の監視船は容易には確保されず、さながらカーチョイスのごとき競り合いであった。10分以上続いただろうか、やっと2隻のGBによって確保された。乗り込んできたGB隊員が開口一番、「大丈夫でしたか?」。私への労りの言葉だった。日ごろやかなNさんの、どこにあのような力が隠されていたのか驚きであったが、その後もNさんの「不屈」にたたかう姿をいくたびも目にすることになった。
基地建設への怒り
不当なフロートを設置しようとする工事船を阻止する際、Nさんはロープでカヌーをフロートに結び付ける。しばらくすると海保隊員が介入し、はじめは説得を図ろうとするが、彼女は完全に無視し、無言でロープの結び目に身体ごと覆いかぶさる。数人の海保隊員が声をかけながら、力で引き剝がそうとするが彼女は頑として動かない。他のメンバーが次々と海保によって引き剥がされていくなか、彼女は最後の一人になるまで頑張り続ける。不当な米軍基地建設に対する怒りが、彼女の身体のなかで炎のごとく燃えたぎっているのだ。
彼女は辺野古新基地反対闘争と並行して、定期的に伊江島の「わびあいの里」(阿波根昌鴻さん設立)での学習会や援農に出かけ、阿波根昌鴻さんのたたかいから多くを学んできた。その伊江島での活動について、とりたてて話すことはしない。しかし、阿波根昌鴻さんの「米軍との話し合いの場では、絶対にこぶしは肩から上には上げない」「米軍とも、われわれは対等だ。さらに、物を生みだすわれわれ農民の方が、米軍より優れているのだ」という「たたかいから生まれた思想」をNさんは、わが身体そのもので受け止めている。
阿波根昌鴻さんの遺志継ぎ
先日、「わびあいの里」を訪れた。自己紹介の際、「辺野古での阻止行動に船長のОさんやNさんと一緒に参加している」と話すと、応対してくださった阿波根昌鴻さんの遺志を継がれた理事長の謝花悦子さんが、「ああ、ОさんとNさんと辺野古で一緒ですか。Оさんは、長年事務局長として『わびあいの里』で働いてくれていましたが、辺野古での闘争に送り出したんですよ。Nさんは、仲間と援農に来てくれているんですよ」と笑顔いっぱいに歓迎してくれた。謝花さんが、Nさんを深く信頼していることが伝わってきた。
Nさんは表立ったことは苦手なようで、裏方に徹しておられる。だが、一旦闘争の現場になると、内に秘めたエネルギーを海保との対応に粘り強く発揮している。阿波根昌鴻さんが、伊江島での米軍とのたたかいや「乞食行進」(注)から生みだした思想が、Nさんにしっかり受け継がれている。(住田一郎)/(注)「(琉球)政府前の陳情小屋で、『もう乞食する以外にないではないか、そうしよう』と話し合ったのが、始まり」(阿波根昌鴻著『米軍と農民』第5章)
