
畝傍山中腹にあった洞(ほら)部落の強制移転のフィールドワークに参加した(11月24日)。はじめに、集合した近鉄の畝傍御陵前駅前で説明を受けた。この駅の「橿原神宮」側には「皇室」専用の大きな扉があるが、現在は閉鎖されたままで「使われることはない」ということだ。
この後、移転地の大久保にある「おおくぼまちづくり館」に移動し、館内を見学した。部落の生業であった下駄や草履の表づくり、靴づくりのビデオや、強制移転にまつわる資料が展示されている。
引率、説明してもらったのはMさん。昼食の後、強制移転に関する話しを聞いた。1920年、208戸、1054人が洞部落4万坪から1万坪の大久保(窪地、低湿地帯のところを示す地名)へ移動させられた。架空の「天皇」である神武の墓があったとされる場所であると、1889年に「橿原神宮」が造られ、1912年には大規模な拡張が行われた。
大正天皇の行幸のため
1915年には、「新(大正)天皇」の「神武陵幸行」が予定され、その報が伝わると被差別部落であった洞部落を「全村移転させよ」との意見が出された。「畝傍山の一画、しかも神武御陵に面した山脚に、御陵に面して「新平民」の墓がある。古いのではない、今も現に埋葬しつつある。しかも、それが土葬であり、新平民の醜骸はそのままこの神山に埋められ、霊山の中に爛れ腐れ、そして千万世に白骨を残すのである。
「どだい、神山と御陵の間に新平民の一団を住まわせるのが、不都合この上なきに、これを許して神山の一部を埋葬地と為すとは、ことここに至りては言語道断なり」(『皇陵史稿』1913年、後藤秀穂著)。
強制的に移転を迫られ、古い家を自分たちで取り壊し、柱などを大八車につんで移転地まで運び、そこで約2カ月かけて家を建てた。墓も、一片の骨も残さぬように警察官立会いの下、掘り起こされ移転させられたという。この間、生活のために仕事はしなければならず、極めて厳しい状況だった。この移転最中に、わかっているだけでも13人の人命が奪われ、特に赤ん坊の死亡者が多く、移転の労苦が偲ばれる。
天皇制の暴力と狡猾
移転をめぐっては、立命館大学の鈴木良が雑誌『部落』(1968年)に、洞部落に関わる最初の論文として『皇陵史稿』などから強制移転論を説き、それが主流となっていた。しかし、洞部落出身の辻本正教が『自主献納論』を言い出し、それが定説になってしまった。
部落改善の目的もあったとはいえ、自主的にすすんで移転したとは決して言えない。天皇制の狡猾さを思う。
「橿原神宮」内にある洞部落跡を訪ねた。草履表に使うシュロの木が何本も生えていた。村の、レンガ造りの共同井戸も残っており、茶碗や瓦のかけらも落ちている。すでに105年の歳月が流れている。後に植えられた樹木で原生林のようになっており、村は完全に消失していた。
「貴族あれば賎族あり」(松本治一郎)。部落を強制的に移転させるという天皇制の暴力性を、まざまざと見た思いがした。(蒲牟田宏)
