
アメリカ・トランプ政権による覇権主義的な暴挙が次々と起こっている。先日はベネズエラのマドゥロ大統領を軍事的に拉致するという事件までが引き起こされた。21世紀の世界を考える時、当然アメリカの動向はきわめて重要なファクターだ。しかし一方でこのアメリカ政治の動力は何なのかを、きちんと見極めることも必要だ。アメリカが現在直面している状況をとらえるために、「基軸通貨ドル」を主語として、第二次大戦後の80年を俯瞰してみた。
一般に世界の国どうしが農産品・工業生産品の貿易をおこなったり、資本を受け入れたりしようとした場合、通貨の問題が不可避的に生じる。各国はその主権の重要な要素として通貨発行権をもち、それぞれの通貨で自国経済を運営している。しかし一般的にはそうした異なった通貨どうしでは、交易が成立しがたい。そのため、それぞれの時代によって異なる『基軸通貨』が必然的に生み出され、その下で世界経済が運営されてきた。
この300年を見ると、まがりなりにも基軸通貨と呼べるものは、イギリスのポンド(18世紀末から1960年代頃まで)とアメリカのドル(1945年頃から現在まで)だけである。
基軸通貨を考えることは、歴史的な「世界の覇権国による支配と管理の問題」を考えることになる。
今回のレポートの目的は、戦後のアメリカのドル体制にしぼって、基軸通貨=ドルにまつわるいくつかの歴史的な事象を拾い出し、現在私たちはどういう世界に立っているのかを考えていくための学習ノートを作成してみたものだ。
ブレトンウッズ会議
戦後の経済・通貨システムの出発点となったブレトンウッズ会議は、1944年7月にアメリカのニューハンプシャー州で開催された。正式には連合国通貨金融会議といい、44カ国が参加した。第二次世界大戦後の世界経済を安定させるため、アメリカ主導で、国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行)の設立を決定し、ドルを基軸とする金・ドル本位制の国際金融体制(ブレトンウッズ体制)を構築した。これにより戦後世界の経済的基盤がつくられた。それ以前のドルは、世界的にはローカルな通貨であり、イギリスのポンドによって価値を計られるものでしかなかったが、第二次世界大戦の結果により、ポンドからドルに基軸通貨の地位が移動したのだ。それは世界史を画する出来事であった。
ユーロ・ダラーの誕生
米ドルは80年前に基軸通貨となったが、当初は現在のような「力」を有していなかった。依然としてポンドの存在感は決して小さなものではなかったからだ。しかし戦後のヨーロッパ、東アジアに対して、大規模なドル借款等がなされることで、西ヨーロッパの銀行等に集められたドルが、積極的に活用されはじめられた。外国の通貨でしかないドルだが、ヨーロッパの銀行による拡張的なドル資金運用がロンドンの金融市場を中心に拡がった。ヨーロッパの銀行によってドル運用が拡大的におこなわれることにより、ドルの世界経済における基軸通貨として役割が徐々に確立していったと言える。
「トリフィンのジレンマ」
1960年代、経済学者ロバート・トリフィンは、「もしある通貨を国際準備通貨にするためには、外貨準備の世界需要を満たすように、全世界にその通貨を供給しなければならないことになる。このことが、基軸通貨を発行する覇権国に対して巨額の貿易赤字をもたらしてしまう」と指摘した。これが「トリフィンのジレンマ」といわれる基軸通貨の本質的な矛盾である。国際収支をバランスさせるための「アメリカからのドル流出」と「他国へのドル流入」が、基軸通貨のメリットであると同時にデメリットでもあるという矛盾は現在も解決できていない。
ニクソン・ショック(1971年)
1945年から1971年までは、各国通貨の交換比率(為替相場)は米ドルを基軸とする固定相場制が取られてきた。ドルと金との交換比率は「1オンス=35ドル」と定められ、日本では1ドル=360円だった。しかし1971年8月に当時のアメリカ大統領ニクソンが、突然にドル=金交換の停止を発表した。これによりアメリカ政府は金を担保としてドルを発行することをやめてしまった。それ以来、基軸通貨ドルは、歴史的に価値を保証してきた『金』による裏打ちを失ったのである。
以降、ドルが基軸通貨であることによって生み出される莫大な利益(メリット)にしがみつくアメリカ政府と米金融資本家たちは、ありとあらゆる政治と軍事の手練手管を利用し、「ドル基軸体制」という仮象をとりつくろってきたのである。
ワシントン・リヤド密約(1974年)
そうした米政府の重要な政策の一つが、1974年にキッシンジャー米国務長官とサウジアラビアのファハド皇太子との間で締結されたワシントン・リヤド密約である。そこでは、サウジアラビアが、石油を米ドル建てで低価格かつ安定的に供給することを約束し、米国がサウジアラビアの安全保障を確約した。これにより、世界中の石油輸入国は、米ドルを最優先に確保する必要に迫られることになった。産業社会において石油は最も重要な資源であり、エネルギー源である。ビルも道路も電化製品も衣料品もすべて石油を原材料としている。こうした石油の価値にもとづいた通貨としてドルは延命することに成功したのである。いわゆるペトロダラーである。
イラン革命(1979年)
アメリカの傀儡政権であったイランのパーレビ国王体制が1979年に打倒され、イスラム主義にもとづく政権に転換した。アメリカは、この事態を中東の緊張状態を継続するために現在まで47年間、利用しつづけてきた。イラン革命後も中東情勢に深く関わり、現在もなお、イランに対するアメリカ主導の経済制裁が断続的に継続している。このようにドル決済システムを外交・安保政策の道具として使う「ドルの武器化」こそは、アメリカが基軸通貨ドルを防衛するためにとってきた重要な戦略であった。
金融自由化、新自由主義(1980年代)
1970年代までの西欧および日本は、製造業を中心とした戦後復興の過程であり、いわゆるケインズ主義的な経済政策が主流の時代だった。ところが1970年代末、イギリスのサッチャー首相の登場を契機として、徹底的な規制緩和と金融化の時代が開始された。それまでさまざまな規制下にあったロンドンの金融市場において、多くの規制が廃止され、参入障壁がなくなっていった。そうすることで世界中の資金が集中したロンドン市場は「金融ビッグバン」と呼ばれる空前の活況を呈した。そしてその動きは世界中に時間差をおいて拡がっていった。その時に運用されたのは米ドルであった。基軸通貨ドルはこれまでになかったようなグローバル(全地球的な)な流動性を獲得していくことになった。
またこの金融自由化は、イギリスの旧植民地を中心とするタックスヘイブン(租税回避地)を生み出した。世界の富裕層がますます肥え太っていくシステムを作り上げていったのである。
プラザ合意(1985年)
プラザ合意とは、1985年9月に米・仏・英・西独・日の先進5か国(G5)財務大臣・中央銀行総裁会議により発表された、主に日本の対米貿易黒字削減の合意の通称である。当時アメリカは1914年から続いた債権国から債務国に転落していた。財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」に直面していたアメリカは、対日貿易赤字を大きな問題として取り扱った。そこで仏・英・西独・日は協調して、実質的に円高ドル安へ誘導することに合意したのである。それはアメリカ政府が、基軸通貨ドルを守るために、西ヨーロッパおよび日本への支配統制を強めていく重大な契機になった。またそれは、戦後の経済復興を牽引してきたアメリカ経済が、いまや先進諸国の協調によって「救済」しなければならない対象になっていることを示したのである。(つづく)
