奄美群島と沖縄諸島

 昨年、奄美出身の講師の方から、「左翼の人でも奄美について理解していない」と厳しい批判をされた。そのことがずっと頭にあって。「南西諸島の軍事基地化反対」などと語りつつも、奄美や沖縄の歴史について私は何もわかっていないと痛感した。余談だが、私は去年まで壱岐や対馬を、大宰府があったからと福岡県と思い込んでおり、壱岐出身の友人に注意されたばかりだったのに … 。
 今年の正月明けに奄美大島に行った。元奄美博物館館長の中山清美氏は次のように語っている。
 「鹿児島から台湾に至る1300キロメートルの海洋上に、約188の島が点々と弧状をなしている。これらの島々は中国大陸や南方、そして日本に大きな影響を与えていることが、近年の考古学の調査結果から明らかになってきた。特に中世の奄美の島々には『シルクロード』や『海上の道』を通って、北から南から、そして大陸から流入した多様な文化が奄美独自のものと混ざり合い、島嶼文化として今も脈々と生活の中に生きている」。

 日本で3番目に大きな島
 「離島」「辺境の地」と見られがちな奄美群島だが、もっとグローバルな視点が必要だ。私たちが学校で習った教育が大国主義的かつ自国本位の歪みから抜け出ていないことを実感した。
 薩南諸島(この呼び方には抵抗があるが)は、南に向けて順に、種子島・屋久島を含む大隅諸島、トカラ列島、奄美群島と続いている。奄美群島は奄美大島、加計呂麻島、請島、与路島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島の有人八島からなる。
 奄美大島は沖縄島、佐渡島に次ぐ日本で3番目に大きな島である。南からきた日本海流は八重山諸島(石垣島、西表島、竹富島など日本最南端のエリア)の西側で東シナ海に入り、トカラ海峡で再び太平洋に出ていく。この海峡の激しい潮流は昔の航海の大きな妨げをなし、文化の境界をつくった。北側は九州文化、南側はアジア大陸文化と呼ばれる。
 地図で見ると奄美群島南端の与論島のすぐ南には沖縄島がある。ところが奄美は沖縄県ではない。遠く離れた鹿児島県に属している。ここに薩摩藩の奄美に対する分断支配の爪痕が残されている気がしてならない。

 琉球、薩摩による支配の歴史
 「あまみ」という名が初めて確認できるのは「日本書紀」である。西暦657年、大化の改新の頃に「海見」と書かれている。今から1369年前のことである。この頃、既に奄美と大和朝廷は交易があった。「奄美」という漢字が定着したのは江戸時代後期である。
 奄美の歴史は以下のように分けられる。
(1)旧石器時代〜縄文・弥生・古墳時代
 旧石器時代は約7万年前から最後の氷河時代になる。そして2万年前には最も寒くなり、現在より約120メートルも海面が低下したと考えられる。そのため、種子島や屋久島などの大隅諸島は九州と陸地でつながっていた。奄美群島は島のままで、人が住むようになったのは約3万年前で、旧石器時代の遺跡が奄美群島だけで5つ発見されている。
 約1万5000年前から気温が上がりはじめ氷河期が終わる。1万2000年前から「縄文時代」となり、それは1万年近く続く。国の天然記念物の「生きた化石」と呼ばれるアマミノクロウサギは人間よりずっと以前から生息していた。
 約7000〜6000年前には現在よりも気温が高くなり、海面も数メートル以上高くなっていた。縄文時代後期になると九州から土器も入り、竪穴住居の集落が遺跡で見られる。遺跡から見ても奄美の島々では早い段階から交易が発達していた様子がうかがえる。余談だが、当時の気候と地殻変動のダイナミクスには驚かされる。今日の海水面上昇は、「二酸化炭素排出量の増大による温暖化が原因」といわれているが、当時とではその規模がまるで違う。
 日本(ヤマト)の歴史ではその後、稲作が始まり「クニ」が形成されていくという弥生時代を迎えるが、奄美では弥生式土器も古墳も発見されず、弥生時代というものはない。山の幸、海の幸がヤマトよりずっと豊かだったので、農業に頼る必要がなかったのだ。必要なものは交易で補いながら漁猟採集生活が続いた。奄美で米が主食になったのは江戸時代(17世紀)からと言われている。
(2)奄美世(マキョ共同体時代)
 マキョとは集落のことであり、奄美では血縁関係で集落をつくり暮らしていた。ヤマトでは8〜9世紀の奈良・平安時代初期に当たる。
 遣唐使は630〜894年の間に15回派遣されているが、その航路は北路と南島路とがある。南島路は奄美を通るルートで、鑑真もこの航路で日本に到着した。奄美はヤマトから鉄を導入し、10世紀には狩猟採集生活は終わり、東シナ海の交易に着手し、11世紀には全国的な商業活動を展開した。
(3)按司世(首長割拠時代)
 生産力の発展によって、交易で富を得て勢力を強めた人物が周辺地域を支配下において治めるようになり、本格的な階級社会が登場してきた。しかし奄美では他地域で見られるような「王」は生まれず、統一政権はできなかった。それよりも各首長は貿易商人としての力を発揮して、南西諸島の中心地として、黄海や東シナ海までうって出た。ヤマトとは太宰府を通じて大和朝廷との関係を持っていた。陶器などは大量生産して船団を組んで交易。朝鮮半島の高麗の優れた技術も取り入れている。
(4)那覇世(琉球王朝統治時代)
 琉球で統一政権が誕生するのは1429年。奄美群島に軍事侵攻したのは1440年前後。最後まで抵抗していた喜界島制圧には、琉球王である尚徳王自らが50余艘の船で2000人の兵を率いて戦った。
 その後、尚氏の中央集権体制はさらに整備され、征服した奄美への支配(統治)も強化された。琉球の奄美支配の主な目的は、貿易の競争相手を打倒することと、日本との貿易の航路としての港湾の確保である。さらに奄美の人々は年貢の取り立てや、琉球のグスク(城)の建設や道路工事などにも駆り出された。また奄美大島は森林が多く木材が豊富なため、その提供や造船も命じられた。そして何よりも奄美経済の中心をなしていた海外貿易からも締め出された。
 琉球の奄美支配は約150年間続くが、徐々に薩摩藩の影響が強くなり、尚王朝の勢力も衰えてくる。1570年には琉球の南方貿易も終焉を迎えざるを得なくなった。1603年に成立した徳川幕府によって薩摩藩は北方へ進出できなくなったため、南方を目指して勢力を伸ばしていった。そして奄美や琉球が犠牲となっていたのである。
(5)大和世(藩政時代)
 1609年に薩摩藩は江戸幕府の了解の下に、琉球に侵攻した。奄美は薩摩藩の直轄領、領地にされた(公文書上は琉球王国領だが)。一方琉球に対しては実質的な支配下におきつつも『琉球王国』を存続させた。理由は当時の中国を中心とする冊封体制にある。冊封体制とは東アジアの中心は絶対的な大国である中国であり、中国の皇帝が周辺諸国の王を臣下とし、王の称号を与える(冊封)というものである。冊封を受けていなかった日本は、中国(明、その後は清)と貿易をしたくてもできなかった。中国は冊封した国としか交易しなかったからだ。
 琉球は中国と冊封関係にあったが、日本はその関係が許されなかった。理由の一つは、豊臣秀吉の朝鮮出兵にあると言われている。そのために薩摩藩と江戸幕府は、琉球王国を形だけ認め、利用し、琉球王国の名で中国との交易を可能にしたのである。
 結果的に、日本の支配とそれへの従属という意味では琉球も奄美も同様であるが、「琉球王国」は存続し、奄美は薩摩藩の直轄地・領土と位置づけられた。それは必然的に薩摩の支配・搾取の過酷さの違いとなって現れた。これが両者の運命の明暗を大きく分けた。ここに「地獄」と称される奄美の悲劇が始まったのである。(つづく)