『米軍(アメリカ)が最も恐れた男その名はカメジロー』を撮った佐古忠彦監督の最新作『生きろ』は、沖縄戦の直前、そこが米軍上陸必至の死地であることを知りながら赴任し、60万県民の命を預かった1人の内務官僚・島田叡(あきら)の物語だ。

 島田叡は1901年、神戸市須磨区に生まれ、神戸二中、三高、東大から1925年内務省に入省した。10の府県に勤務したが、東京勤務を一度も経験しない異色の官僚だったという。1945年1月、前任の知事が本土に帰ってしまい、空席となった沖縄県知事の辞令を受けた島田叡(当時大阪府内政部長)は、家族全員から反対されるも、「若い者ならば、赤紙1枚で否応なしに行かねばならないではないか。それを俺が固辞できる自由をいいことに断ったとなれば、卑怯者として外も歩けなくなる。俺は死にとうないから誰かが行って死んでくれとはよう言わん」と決心を変えなかった。

 1月31日、軍用機で那覇に向かう。『葉隠』『南洲翁遺訓』の2冊の本をもっていったという。それから亡くなるまでの約5か月、知事として沖縄県民のために尽力する。彼のやった仕事は、大きく三つある。一つは沖縄の食糧確保のため危険を顧みず台湾に渡り、米を移入し県民の飢えをいくらかでも救ったこと。二つは沖縄北部にかなりの住民を疎開させたこと。この疎開でおよそ10万人の命が救われたという。三つは、最後には壕内の県庁を解散し、本土決戦のため沖縄を犠牲にする軍部の「軍官民共生共死」の考えに抵抗した。沖縄県民に、「生きろ」と示したことである。

 沖縄戦の最中、知事と出会った人たちの証言は、沖縄戦がどれほど過酷だったか教えてくれるともに、島田知事がぎりぎりのところで県民のために行動したことを伝えている。故・大田昌秀さん(元沖縄県知事、戦中は鉄血勤皇隊少年兵)は言う。「軍が県に対して要請というのは、当時は命令なんですよ。それを拒否というのでは、そもそも知事としての職務を果たせない。軍が県民も一緒に玉砕するんだと公然と言っていた中、なんとか住民の命をまもろうとやったわけですから。その辺りを単純に軍隊と一体化して生徒を動員したなんて当時の実情を知らない人が言うことであって、知っていたらとてもそんなことは言えませんよ」。女子学生として動員されていた大嶺直子さんは、「沖縄は、また春が巡ってくる。死ぬのはたやすいけど生き延びなさい、という言葉をね。この言葉がなければ自決していたと思う」と話している。

 6月20日すぎ、沖縄では最後の組織的戦闘が終わった。島田叡は、摩文仁の壕を出ていく。多くの沖縄県民とともに、遺体、遺骨は今もわからない。摩文仁の丘には、島守の塔が建てられた。私の母校でもある県立兵庫高等学校(旧制神戸二中)の校庭の一角に、島田叡を偲ぶ「合掌の碑」がある。沖縄の方に手を合わせた形の碑は、私たち後輩に人として生まれ、どう生きるのか問いかける。

 折しも、市民が神戸市議会に陳情した「政府は沖縄県民の思いに寄り添い、辺野古新基地問題の解決のため、沖縄県とさらに対話を深めるよう」という意見書が採択、可決された。(石塚 健)