元ゲリラのムヒカは民政移管により1985年、13年ぶりに解放された。ゲリラ指導者は、既に獄中から、武装闘争の放棄と合法活動を進めることを宣言していた。ツパマロスの関係者は一同に会し、新しい政治状況のもとで、一体何をすべきかを議論した。
▽より開放的な運動へ
リーダーたち全国各地を歩いて人びとと対話し、現状と民衆の心を把握していった。延々と議論を重ねて彼らが出した結論は、合法的な運動を広げていくという方針だった。
彼らは「新しい潮流を取り込み、もっと開放的でより大きな運動を目指して」、無党派の人たちとともにMPP(人民参加運動)という組織を結成。中道左派連合「拡大戦線」に加入申請し、1989年に認められた。
武装闘争を清算したからではなかった。「われわれは決して武装闘争を後悔などしていない。情勢が変わったからこそわれわれも変わらなければならなかった。これまでのやり方では通じないし、それでは政治的に葬られてしまう。武装組織にとっては大変困難な作業だったが、われわれは柔軟になることができた」と。
闘争の激化を求めていたメンバーは「革命は終わった」「体制に取り込まれた」と言って去っていった。
▽新自由主義とウルグアイ
軍部から政治を取り戻した伝統的保守の二大政党が推進したのは、新自由主義的な経済政策だった。1980年代に経済危機に陥ったラテンアメリカ諸国はIMFや世界銀行に支援を求めた。こうした国際機関は、支援に応じる条件としてきびしい構造調整プランを押し付けた。その恩恵をこうむったのは富裕層だけで、下層の人びとはさらなる貧困に直面した。多くの国で飢餓と暴動が発生した。
南米諸国が相次いで新自由主義に舵を切った結果、ウルグアイ経済は苦境に陥った。ウルグアイは市場が小さく、南米の経済ブロックであるメルコスール加盟諸国への輸出によって経済を支えていた。1999年、ブラジルが金融危機に陥ると、1年間でメルスコールへの輸出が4割も減少した。さらに01年、アルゼンチンが対外債務の支払い停止を宣言するとウルグアイ経済は大打撃を受けた。
GDP成長率は、マイナス12・7%(02年)となり、失業率は17%にはね上がった。03年にはIMFから緊急融資を受けた。ウルグアイの民衆は保守政権に不信を募らせ、与党離れが進み、その一部が「拡大戦線」に流れ込んだ。(脇田和也)