
沖縄ではすでにウグイスの谷渡りの鳴き声、ツツジ、さつきが咲き、海開きの情報があり、車には冷房を付ける。怖い話もあり、石垣にはミサイル部隊が配備され、3月18日にミサイル弾薬が運び込まれました。
辺野古では海上、安和、塩川のゲート前で抗議行動が続けられ、署名活動も引き続き細々と。裁判闘争も3、4件。裁判は3月16日に2件。海上行動で海保に重傷を負わされた千葉さんの裁判と、県が辺野古を不承認としたにもかかわらず「国が取り消しした」ことに対する裁判です。
「弱きを叩き、
強きを助ける」
昔、「ショート・ショート」という分野を切り開いた星新一さんが、「人民は弱し、官吏は強し」という本を出版しましたが、この手の裁判は「弱き民を叩き、強き国を助ける」もの。わかっているが許せないから、裁判に通います。
なにか、ほっとする話はないのか…。ほっとしないかもしれませんが、今、国会で追及している「放送法」問題は、安倍政権下での放送界に対する圧力が露わになったのはよかった。確かに放送番組に政府の関与がありました。それは放送業界が政権に忖度する形で行われました。2015年3月、「報道ステーション」のコメンテーターを務めた古賀茂明さんが「イスラム国(IS)」人質事件で政権批判したことが原因で降板しました。最後の出演の際に掲げた「I am not ABE」のフリップは衝撃的でした。
異見をとりあげること
16年3月、NHKでは「クローズアップ現代」のキャスター国谷裕子さんが降板しました。集団的自衛権の行使容認について菅官房長官にインタビューしたとき、執拗に問題点をついたことに因ると思われました。まだあったかもしれませんが、政権はマスコミ対策をしており、私たち視聴者はおかしいと感じていました。その背景が、国会審議の過程でわかりつつあります。
そういう中、3月20日、自民党の菅前総理は、放送法の「政治的公平」に関する行政文書を巡って「放送事業者そのものが政治的に公平であるべき」だと言っていましたが、怪しげな言い分です。放送法の成立は、戦前の放送が政府のプロパガンダに始終したことへの反省として制定されました。それを考えると「政治的公平」とは政府の一方的な宣伝に対し、民の方からも異見を言うことで「やっと公平になる」という意味での「公平」です。異論を前提にしての「公平」で、政府批判は当然のことなのです。
ミサイル反対の声は
もう一つ怪しげなのは、政府は「放送法の解釈変更はなかった」と答弁しています。ほんとうにそうなのか。マスコミは萎縮し、自己規制してはいまいか。注視、監視しなければなりません。
放送法の精神を歪めるとどんなことになるのかは、プーチン政権のロシアをみればわかります。国営放送は政府のプロパガンダになり、多くの視聴者が受け入れてしまい、反戦の声はつぶされてしまいます。放送法の問題は「ほっとする話」ではありません。
ほっとする話はあるだろうか。あえて探せば3月23日に、沖縄県議会が「対話と外交による平和構築を政府に求める」意見書を提出することを決めたことがあります。「ミサイル配備中止」の文言が入れば、議会自民党が賛成しないとのこと。本当にほっとする話になるのか、先はまだ見えません。 (富樫 守)