
森永ヒ素ミルク
松田さんの生涯をエッセイ集に綴られた言葉をたどりながら。
終戦から10年がたち、急激な経済成長に伴う環境破壊が多発した時代に森永ヒ素ミルク事件が起きました。生まれたばかりの松田さんはその粉ミルクを飲み、下痢と嘔吐で衰弱して生死の境をさまよいました。
原因はヒ素を大量に含む猛毒物質が森永乳業徳島工場の粉ミルクに混入していたためです。厚生省(当時)が無害と承認し、工業用のその物質を森永乳業が食用として、古くなって酸化が進んだ牛乳の安定化剤として使用したのです。
乳児1万2334人が被害者となり、その内死者は130人。当時は日本の経済成長が最優先された時代でした。政府は加害者である森永側に立って収束をはかったため、被害者たちの抗議は抑え込まれました。
松田さんも「証拠がない」と認定患者からはずされた事をみれば、実際の被害者の数はもっと多大だったと思われます。その後次々と多くの患者に後遺症が発覚しますが、森永乳業は因果関係を否定。現在も脳性まひ、知的障害、てんかん、精神障害などに苦しむ患者がいます。
松田さんは10代のときに生涯苦しむこととなる摂食障害を発病しますが、乳児のときの経験が影響したのではないかと、この事件を風化させず伝え続けることが自分の使命だと語っています。
差別をみつめて
松田さんが3、4歳の頃に、仲良くなった女の子を自宅に連れて来たとき、その子を見た母親が忌まわしいものでもみるような態度をとりました。その子が朝鮮人の子どもであったために大人たちの禁忌に触れたと松田さんは感じとりました。そして唯々諾々と大人に従い、二度と女の子の家には近づきませんでした。それから女の子は引っ越してしまい、ついに謝罪ができなかったことが、松田さんの生涯抱えていかなければならない原罪となります。
成長して侵略の歴史を学ぶにつれ、加害者として、日本人としての原罪意識は抜き去りがたいものになってゆきます。
摂食障害
「生まれてからわずか2~3年、ようやく自我が芽生える頃に私は二つの大きな『不合理』を知っていました。『なぜ女は卑しめられるのか』『なぜ朝鮮人は卑しめられるのか』」 さらに8歳のときに遭遇した唾棄すべき性暴力。あんなことがなかったら失わずに済んだものをと、悔やみながら亡くなるまで後遺症に苦しめられました。
また、女性の命が軽んじられれば軽んじられるほど、恵まれているはずの男性にのしかかるものは重くなります。松田さんの生来とびぬけた感受性の鋭さや傷つきやすさが、摂食障害という当時はその概念さえなかった病を招いてしまいます。
「なぜ私は喜びと感謝をもって『いのちをいただく』ことができないのか。私には普通の意味での食欲などありません。何かが満たされていないので食べ物を欲するのです。それが何なのか40年以上考え続けてきました。この先も永遠に満たされる事のない飢えを抱えて生きていくのでしょう。餓鬼地獄? 私はどんな業を背負っているというのか」 (つづく)