
ぼくが高校3年の冬休みに「あさま山荘事件」が起き、その後すぐに連合赤軍による「同志リンチ殺人事件」が発覚した。事件を題材にした漫画に『レッド』がある。作者の山本直樹さんが「メンバーで交わされる言葉と現実の乖離」みたいなことを言っていた。
映画『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』(若松孝二監督)。山岳ベースでの〝総括〟場面、森恒夫や永田洋子がメンバーに「共産主義化ができていない」とつめ寄るシーンがでてくる。「共産主義」という言葉を武器に、相手を追いつめる。
単純な言葉に惑わされてしまうのだ。なぜ、そうなるのだろう。ある人に「18歳のつまず躓き」ということを教えてもらった。高校生から大学生になると、いろんな言葉に出会う。ぼくも夜学に入り「ガイダンス、レジュメ、哲学概論」とかを聞き、一気に大人になった気分、世の中が全部判った気になった。言葉の魔力に取りつかれるのだと思う。特に漢字の熟語の魔力はより大きいだろう。
言語学者・田中克彦さんの『言葉と国家』(岩波新書)、『差別語からはいる言語学入門』(ちくま学芸文庫)を参考に考えてみたい。世界には3000とも5000ともいわれる言語があるそうだ。それらの言葉そのものに優劣はない。日本語よりも英語が優れている、大阪弁や九州弁より東京弁の方が優れている、ということはない。
言葉に優劣を持ち込んだのが「自由・友愛・平等」を掲げたフランス革命であったという。フランスにはオック語、プロバンス語、ブルトン語などを話す人びとが住んでいるが、統一国家の公用語として北部で使われていたフランス語を「正しい言葉」とした。
日本の「標準語」は、東京の山の手あたりの話し言葉を基にしているらしい。例えば東北の方言をズーズー弁と揶揄したり、琉球語を止めさせるために方言札を生徒に付けさせた。言葉の国家統制である。
書き言葉はどうなのか。ぼくらは漢字、ひらがな、カタカナを使って書く。アルファベットで文章をつくる人たちからしたら、すごいらしい。話し言葉は、生まれて大きくなる間に知らないうちに身についている。どういう具合に話せるようになったか覚えている訳でもない。
しかし文字で言葉を表すとなると、そうはいかない。文字を覚える必要がある。文字には、オトを表すひらがな、漢字など意味を表す文字がある。日本では3種類の文字を覚えなくてはいけない。漢字は、書き順も含め覚えなくてはならず、すごい労力を必要とする。
誰でも話せるという点で人は対等だが、「書くとなると決定的な差別が生じる」と田中克彦さんは言う。オト文字ならせいぜい50文字で済むが、意味文字になると無数に覚える必要がある。そんなことができるのは、働かなくてもよい人間だけだと指摘されている。漢字語の多用は、言葉の民主主義に反し、言葉の使用に関する差別を助長するとも言われる。
言葉の使いようは、ぼく自身も反省しなければならない。ぼくが言葉について大いに考えさせられたのは、安保法制の時に国会前でスピーチをするSEALDsの人たちの発言を聞いたときだった。自分の問題に引き付け、自分の言葉で発言していた。難しい用語は使っていなかった。
「資本の本源的蓄積」とか「史的唯物論」とかを使うと、分かったような気になっていた。言葉は口に出して言うと、もうそれが現実になったような気になってしまう。言葉の力であり、怖さだと思う。
