中沢啓治さんの『はだしのゲンが見たヒロシマ』(DVD)の上映会があり、参加した。はだしのゲンを通した中沢さんの被爆証言でもある。
映画のなかで中沢さんは、登校して校門の傍にいたとき閃光と爆風に襲われた。倒れてきた塀が、吹き飛ばされた街路樹の株に当たって隙間になり一瞬の差で助かった。自宅で家の下敷きになり、火に包まれて死んでいった弟、姉、父親の最後の姿。重い柱を動かすことができず、助けることができなかった。弟の「にーちゃん」という叫びが耳に沁みついていると、苦しそうに語る。
そのあと見た光景。やけどで皮ふを垂らし、足にも腰から垂れた皮ふを引きずり、ゆっくりゆっくり歩く幽霊のような人たちの行列、行列。近くの野菜畑に、びっしりと横たわる焼けただれた裸の人たち。「水をくださいー」という合唱のような声に、落ちていた鉄兜に水を汲み飲ませると、一口飲んで首を落とし、そのまま次々にこと切れていった。
被爆直後に生まれた妹は4カ月後に亡くなり、母も原爆病院で亡くなった。原爆(核兵器)は一瞬に熱線、爆風、放射線を浴びせる。広島型の場合、地表の瞬間温度は3000度(石段の影になった人など)、秒速400メートルの爆風(1・4キロ地点で10メートル飛ばされた証言を聞いた)、放射線は500メートル~1キロ付近で10~5sv(μ、mではない。致死率100%に近い)。核兵器が、使用はもとより「開発、実験、製造、保有」も禁止(禁止条約1条)される所以である。
次の世代の子どもたちに「原爆を知ってもらいたい」という一念と、「青い麦のように生きよう」という思いをゲンに託した。DVDでも「原爆を投下したアメリカ。戦争を始めた日本」に中沢さんの怒りは激しい。原爆投下、原爆そのものへの怒りをぶつける。
生き残った被爆者も結婚や就職で差別された。中沢さんも漫画家を目指して上京したころ、広島から来たと言うと「放射能がうつる」と人が近寄らない。二流出版社に漫画原稿を持ち込んだとき、「出されたお茶を飲むと、誰も湯呑みを片付けなかった」と聞いたことがある。そういえば同じころ、東京に進学した私の従弟たちが「下宿を断られて困ったよのー」と言っていた。
中沢さんには「8・6ヒロシマ平和の夕べ」に何度か来てもらった。福島第一原発事故の11年は小林圭二さんと中沢さんだった。
肺がんを患い、翌年は車椅子での参加だった。
『はだしのゲン』の前作、短編集『黒い雨にうたれて』も薦めたい。(竹田雅博)