
「悲劇」
1941年5月、熊本県来民(くたみ)村から先遣隊11名の青年がハルビンと新京の中間点の五家站外れの入植地に入った。次いで42年4月、第1次開拓団37家族150名が渡満し、45年4月までに三百数十名が移民していった。
関東軍はいちばん多い時で70万人ほどの兵隊を擁していたが、1945年もなると、南方戦線に兵隊を取られ満州現地召集で兵隊を補充した。「兵隊にとられない」という甘言は反故にされ、来民村の男性も応召されていった。
そして、開拓村に残っていた275名の最後の日、1945年8月17日を迎える。日本が戦争に負けたと知った現地の中国人たちの襲撃に遭ったのだ。中国人にすれば、来民村の人びとは侵略者。自分たちの土地を奪い、農作業などでこき使ってきた人間だった。来民村の人びとは子ども含め開拓村を守ろうとしたが、力果てて集団自決に追い込まれた。集団自決と、火に燃え盛る村を見ながら村の最後を伝える役目を担った宮本貞喜は、涙ながらに村を去った。宮本貞喜は、1946年9月1日に故郷の来民駅に降り立った。どのような心境だっただろうか。45年9月12日、村の公民館で集団自決の模様を村人に報告する。
『満州分村移民と部落差別』の著者、エィミー・ツジモトさん(アメリカ在住、日系4世)は言う。「満蒙開拓策―を生み出した石原莞爾、東宮鉄夫、加藤完治たちこそ、人々の人生を軽んじ崩壊させた張本人として、日本人は歴史上あらためて問いただす時期がきている」「このような悲劇を招いた張本人たち、岸信介、東条英機、星野直樹、松岡洋祐、鮎川義介…戦後、彼らからこの悲劇を反省し償う言葉は、聞くことができなかった」「岸信介に至ってはアメリカを後ろ盾として戦犯をのがれ、首相の座にまで上り詰めた。心に傷を抱えたまま戦後を生き、引き上げ者や母国への帰国を夢見て年老いていった『残留孤児』の悲劇を招いた張本人が、である」。(こじま みちお)
