沖縄島最北端・辺戸岬に立つ祖国復帰闘争碑

祖国復帰闘争碑は、沖縄の復帰闘争の歴史を語る象徴として1976年4月に、辺戸岬(へどみさき)に建てられた。碑文の一部を紹介する。
 ——国のそして世界の友人に贈る。吹き渡る風の音に耳を傾けよ。権力に抗し復帰をなしとげた大衆の乾杯だ。打ち寄せる波濤の響きを聞け。戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の叫びだ。(中略)1972年5月15日、祖国復帰は実現した。しかし県民の平和の願いは叶えられず、日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された。しかるが故にこの碑は、喜びを表明するためにあるのではなく、まして勝利を記念するためにあるのではない。闘いを振り返り、大衆を信じ合い、自らの力を確かめ合い、決意を新たに仕合うためにあり、人類が永遠に生存し、生きとし生きるものが自然の摂理のもとに生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある。——
辺戸岬から晴れた日には奄美・与論島が見え、その間に27度線がある。琉球弧の島々である南西諸島は、一括りにできない複雑な面をもっている。15世紀の初め奄美の島々は、沖縄島の首里に王府をおく琉球王国の版図にとり込まれた。しかし、1609年の薩摩藩による琉球侵攻後は、薩摩藩直轄領地とされ植民地的処遇を受けた。
 
沖縄と奄美
 
沖縄と奄美の関係に少し言及したい。奄美・沖永良部島の出身である高橋孝代さん(文化人類学研究者)は、「これまでの多くの先人が、琉球弧に生きる人間としてのアイデンティティを探し求めてきた」「沖永良部島民は(奄美の島々の民は)、国家の枠内でドミナント対マイノリティという構図に単純に納まらない。沖縄と日本本土の間に位置する境界地域における歴史的政治的文化的影響から、沖永良部島民は(奄美の島々の民は)、日本人、大和民族、鹿児島県民としてのアイデンティティをもつことでドミナントとしてのアイデンティティをもとうとし、他方文化的には沖縄というマイノリティのアイデンティティをもつ傾向にある」「沖永良部の人々は(奄美の島々の人々は)、このような相反する二つのベクトルに向かうアイデンティティを、状況によって心理的に往来するボーダー・アイデンティティをも保持しているといえるのである」と述べている。
琉球弧の島々である「沖縄」と「奄美」が引き裂かれてから、400年以上が経過している。その歴史的な溝を埋めることは簡単なことではない。復帰50周年が「祖国」復帰なのか「本土」復帰なのか、「日本」復帰なのか。「50年、基地は変わらなかった」。沖縄本島北端の辺戸岬に建つ碑は、その無念の思いを伝えている。(高崎)