キャンプシュワブ・ゲート前の座り込み=名護市辺野古、2014年9月

2014年9月23日10時、私は辺野古バス停で降り「辺野古新基地建設阻止」本部テントに向かっていた。そのちょうど2週間前、神戸学生青年センターで琉球大学から関西大学に移った高作正博先生の「辺野古での基地反対闘争」講演会に出席した。高作さんは、「いま辺野古は大変な事態になっている。ぜひ現地に行って反対行動に参加してほしい」と訴えた。

長年の「負い目」沖縄

70年安保闘争世代の私にとって、沖縄は長年「負い目」に近い感情を抱きつづけてきた場所であった。学生時代の数年間「4・28沖縄デー」で声をからし、沖縄に連帯する思いで「沖縄を返せ!」と叫んできた。だが、72年5月15日に「返還された沖縄」の実態は返還前とまったく変わらず、米軍基地はそのまま居座ったまま。さらに「日米地位協定」が日本国憲法の上位に置かれる日常生活を、もっとも直接的に強いられる県となっていた。
野村浩也さん(広島修道大教授)が指摘した「無意識の植民地主義」下に置かれていた。「あなたは沖縄返還後、何をしてきたのか」と問われる思いで、旅行でも沖縄に足を踏み入れることもなく、私は沖縄から遠ざかってきた。それが私の沖縄にたいする「負い目」だった。

テントで出会った人達

浜の本部テントで「高作さんの講演を聴いて兵庫県からきた」と告げると、応対した女性は基地阻止闘争の現状について丁寧に説明してくれた。
「今日、泊まるところは決まっているの?」と聞かれ、「高作先生から1500円で泊まれると聞いています」と答えると、居合わせた男性に「『海風(うみかじ)』まだ泊まれるわよね」と声をかけてくれた。彼も「大丈夫です」と、話が決まり、瀬嵩(せだけ)のゲストハウス『海風』まで送ってもらう。
ゲストハウスのオーナーも、辺野古新基地阻止闘争に当初から参加している活動家だった。このゲストハウスで信州からきた若者と、海外生活の長い稲葉さん(現「クッション」支配人)とも初めて出会うことになる。

和ませ勇気づける

翌日、7時に瀬嵩から工事用ゲート前まで送ってもらう。抗議行動の進行役を務めていた山城博治さんから気さくに声をかけられ、自己紹介をした。山城さんのこの気さくさは、初めて闘争に参加した人の心を和ませ、同時に彼のバイタリティー溢(あふ)れる演説と歌唱力に参加者は勇気づけられ、惹(ひ)きつけられる。
私にとっても、印象深いゲート前での阻止行動初日だった。2014年7月7日に阻止行動が開始されて約3カ月後であったが、ゲート横に角材とビニールシートでフェンスに沿ったにわか作りの仮小屋があり何人かが泊まり込んでいた。「寝袋市議」の異名をとった名護市議の女性も泊まっていた。
翌々日は、カヌーでの抗議行動に参加するため集合場所のテント2に行った。カヌーチームのリーダー、コウブンさんの指示で琉大の学生コウメイさんからカヌーの基礎的な操作を教えてもらい、最後に転覆練習をして教室を終了した。
昼から早速、松田ヌ浜から2キロ先の長島、平島を目指しカヌーを漕(こ)ぐ。はじめは足の位置が決まらず、足を組んだままイレギュラーな姿勢で漕いでいた。それでも何とか、みんなについていくことができた。
辺野古崎の岩礁地帯にさしかかった辺りの海はあまりに美しく、見とれてしまった。こんな美しい景観が、世界一危険な普天間米軍基地の「唯一の代替地」として埋めたてられてしまうのかと思うと悲しくなると同時に、怒りが込み上げてきた。少し離れたところにはハマサンゴやテーブルサンゴも群集していた。
10年後の今日、これらの景観は埋め立てられてしまい、見る影もなくなっている。(すみだ・いちろう)