
優生学の発生
19世紀半ばイギリスの生物学者チャールズ・ダーウィンはその著書『種の起源』で進化論を発表した。「生物は自然淘汰(とうた)、すなわち環境に適応できる種が進化し、適応できない種は生き残れずに滅び、そのことによって生物は進化してきた」という学説である。それを人間社会に適用したのがダーウィンの従兄弟(いとこ)で「優生学の父」とも称されたフランシス・ゴルトン(1822-1911年)である。彼は遺伝的に優秀な子孫をつくることにより国家・民族は発展し、逆に遺伝的に劣等な子孫を産むことにより社会は滅びると、社会ダーウィニズムのなかに優生思想を取り入れていった。
この頃のヨーロッパは長い中世を抜けだし、「科学と文明」を獲得していった時代である。ゴルトンは統計学や気象学でも才能を発揮した人類学者で、優生思想を「学問」として確立し、世界に影響を与えた。日本においても優生思想は文明開化の思想として紹介され、優秀な人間が劣った人間を支配するのは当然であり、進化論にかなっていると理解された。
東大総長の加藤弘之やかの福沢諭吉も「人間は生まれながらにして自由かつ平等である」という天賦人権説をフランスから輸入して紹介しておきながら、後年、社会ダーウィニズムを知ることで優生思想の影響を受け、人間の遺伝的「優劣」を主張するにいたった。優生思想はさまざまな差別を肯定する根拠となっていき、国家の利害とつながっていった。
「欧米の優秀な白人がアフリカの黒人をはじめ世界の有色人種を支配するのは当然」として、奴隷化や植民地主義が正当化された。
優生思想が最も社会にまん延したのはヨーロッパ以上に米国だと言われている。1907年以来、米国の各州において次々と遺伝的な障がい者や病者、そして犯罪者に不妊手術を強制する法律が作られ実行された。
ナチス・ドイツの蛮行
1933年にナチス政権が成立したとき、遺伝性疾患防止法(断種法)と危険性常習犯罪者法が法制化された。ナチスによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)は誰もが知るところだが、障がい者、ロマ、政治犯、脱走兵、捕虜、LGBTの人たちに対しても、当初は強制収容所で隔離・強制労働、そして戦争末期になると虐殺が断行された。
障がい者の迫害はT4作戦と呼ばれ、1939年秋から1945年春(ドイツの敗戦)にかけて21万6000人が殺害された。そのカルテが残されており、遺伝・家系が綿密に調べられていることが分かる。
ナチスの優生政策論に基づくプロパガンダでは、労働能力のない「穀(ごく)潰し」の障がい者が健常者に比べて「優遇」されていること、障がい者を扶養するコストが国家の繁栄の足を引っ張っていることが強調されている。「価値なき生命がたんまりと栄養分を頂戴してすくすくと成長するはおろか、増殖までも保証されることを怪しまぬ者こそ、自然の法則に背くものではないか」とし、「忌むべき」存在に死を与えることが「慈悲」であるとまで主張した。
一方、危険常習犯罪者法は犯罪の問題と優生学をリンクさせ、障がい者をあたかも犯罪因子とみなし、社会における「害」とする社会防衛的障がい者観に基づくものである。犯罪はその社会に原因があり、犯罪をなくすことは何よりも社会の変革に求めなくてならないのではないか。それを「劣なる遺伝子」に原因を求め、障がい者を「淘汰」するなど、全く許し難い! これを遠いむかしの外国の出来事と済ませてはならない。国は危機になると、このようなプロパガンダで国民を組織することを肝に銘じなければならない。レイシストの台頭もその現れだ。
次号は、日本に輸入された優生思想がどのように戦争と帝国主義国家の建設に利用されていったのかについて述べたい。(想田ひろこ)
【参考文献】『国から子どもをつくってはいけない言われた人たち ―優生保護法の歴史と罪』 発行:優生保護法被害者兵庫弁護団、優生保護法による被害者とともに歩む兵庫の会
