
他県に住む知人らから、「兵庫県、知事選の状況には何があるのか」「総評、空気感を聞かせてほしい」という問い合わせがあった。市民運動でも議論、意見交換が行われているが、「これだ」という報告、結論が出たわけでもない。「総評」と言われると至難であり、「空気感」なら思うことがある。
開票の日、「11時くらいまで特番、開票速報を見るか」と、8時前にテレビをつけたとたんに「斉藤当確!」。その後、数日間は上手く表現できないが、気分が悪かった。
「コミューン」がどういうものか、昔のバリケード空間で疑似体験にもならなかった程度か。その上で代表制、代議制民主主義というのは、階級闘争史観から言えば「支配の道具」であり、空洞化や疑似民主主義の感もあるが、それはそれでけっこうよくできているのでは…。どういう人に代議、代表を託すか、誰を選ぶか。ともかく「自分で投票に行き、自分で紙に名前を書く」という意志、行為を行う。
SNSの背景を考える
新聞、テレビも報じたように、SNSで多数の人が「いいね」を押しただけでなく、街頭演説にも1000人を超える人たちが集まり盛り上がり、子どもまで「サイト―さ~ん」と叫んでいた。アイドルのイベントかと見紛う。SNSをやらないから、そこの状況、雰囲気は想像する以外には、よくわからない。こういう時代が続くのか、そういう時代になるのかと思うと「気分が悪い」というのが率直な気持ちである。
心地よい「改革、躍進」
一方、人は物事を否定的に考えるよりも「肯定的」に考える(考えたい)のだなと思った。翻ってみると、いわゆる左派リベラルは、概ね「なになに反対!(打倒!とか)」と言ってきた。現状否定、反対だ。政策はどうであっても、トランプの「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」という言葉は、気持ちがいい。ラストベルトの苦境、ニューヨークのホームレス、移民問題にどう対応するかなどよりも、はるかに心地いい言葉である。
斎藤候補も「改革、兵庫の躍進を止めない」と言った。総選挙で議席を減らしたとはいえ、「改革」のワードは維新が下地をつくり広め、無内容でも意味があるかのような言葉として使われようになった。「斉藤は悪い」よりも、「1人で頑張っている」「かわいそうだ」「改革しようとしている斎藤さん」などが、急速に広まった所以ではないか。
「情報の真空状態」新聞見出し
選挙最終日の午後、稲村候補の街頭演説に行ってみた。斎藤候補には1000人、2000人集まったとか。選挙の街頭演説は、ふつう概ね200人くらいのもの。アイドルの追っかけではないのだから1000、2000ということ自体が異常だった。稲村候補はしっかりと政策を話し、人柄も感じられた。しかし、何と言っても尼崎市長のレベル、東西南北、広い兵庫の「全県選挙」をやったことはない。斎藤候補は、前回知事選を制し4年間の現職。悪名も含め知名度は抜群だった。それにしては、111万票の斎藤候補に、稲村候補の97万票は、よく迫ったと思う。
ちなみに地元紙の神戸新聞は選挙後1週間ほど、「SNS拡散、選挙戦一変」「情報の真空状態」「出口調査、文書問題重視9・6%のみ」「投票率大幅増」「再選斎藤氏、得票率は低下」など、分析や雰囲気を伝えていた。(竹田)
