
岡山県瀬戸内市に、長島という細長い小島が浮かんでいます。カキの養殖用の筏が島の周囲を取り囲むように浮かび、風光明媚なところです。江戸時代は馬の放牧場であったらしいのですが、現在は二つの国立療養所、邑久光明園と長島愛生園が運営されている島です。
長島と本土の間(瀬溝)は、わずかに50メートルくらいしか離れていません。1988年に長島大橋(「人間回復の橋」)ができるまでは、船で島に渡っていたのです。その名残りが、長島の木尾湾にある「二つの桟橋」です。(写真/右側がハンセン病患者用、左側が職員用)
湾の東側の桟橋が邑久光明園に収容される患者専用、西側が職員用に使われていました。今ではすっかり朽ちてしまった、この桟橋がいつまで使われていたのか分かりませんが、ハンセン病患者が受けた差別の歴史をとどめています。
50年に及ぶ在園
私は(2024年)11月9日、10日、ハンセン病関西退所者原告団「いちょうの会」の親睦旅行に参加し、邑久光明園に行ってきました。その時に屋猛司さん(邑久光明園・入所者自治会長)のお話を聞くことができした。
屋猛司さんは、奄美大島出身です。関西で働いていた1974年5月、32歳の時に邑久光明園に入所しました。以来50年間、邑久光明園での生活が続きました。屋さんが入所したころは、750人余りの入所者がいたそうですが、2024年11月9日の時点で70代が3名、80代21名、90代26名、合計50名ということでした。平均在園年数は、50年に及びます。
全国ハンセン病療養所入所者協議会など、4団体で構成される統一交渉団と厚生労働省との協議で、国立療養所の将来構想が話し合われており、最後の一人になるまで国が責任をもって入所者をケアーすることが決まっています。しかし、全国13カ所の療養所では、入所者の高齢化のために、自治会が機能しなくなっている所も多くなっています。
「福祉の国」の棄民政策
せっかく療養所を出て地域で生活してきたのに、また療養所に戻らざる得ない人もあります。療養所に隔離されると同時に、故郷・家族から断絶を余儀なくされ、かつ療養所の中で断種・堕胎手術を受けさせられ、その上、産まれたばかりの赤ちゃんまで無残にも殺されました。そのため、子どもさんもいない人も多いからです。
そういう人たちのために、たとえ入所者がゼロになっても5年間は療養所を閉鎖せずに維持することが決まっているそうです。
かつてソ連共産党のゴルバチョフ書記長が言った「日本は世界で一番成功した社会主義国」のような、資本主義国です。不思議な国です。先進国でありながら、アメリカの植民地(日米合同委員会でがんじ絡め)のようだし、議会制民主主義国だけれども、アメリカや韓国のように政権交代も起こりません。
水俣病対策やハンセン病対策では、徹底した棄民政策をとってきました。すさまじい差別と排除の政策を行ってきたわけです。
一方で、国民皆保険制度があります。私のような重度障害者には、重度障害者医療制度もあり、また各種の障害者割引制度や減税措置もあります。さまざまな福祉政策、制度も、多くの当事者、支援の運動がかちとってきた結果です。
たたかい続けた患者と支援者
ハンセン病対策に限っては、わが国は徹底した差別と隔離政策を行ってきました。それに対して、国家賠償請求訴訟を提起し、血の滲むような運動を当事者が行なった結果、屋猛司さんが話しているように、厚生労働省が対策をとってきたのだと思います。入所者自身がたたかい続けたからこそ、今があるのだと感じました。
これらを紹介したのは、もちろん日本の差別社会を免罪するためではない。(こじま・みちお)
