ウチナ―とヤマト 海保隊員に拘束されるカヌー

第一次辺野古新基地阻止闘争については、鐘ヶ江晴彦論文(「専修大学社会科学年報」第41号)に詳しい。2004年4月19日,施設局は海底ボーリング 調査のための作業を強行したが、翌05年9月2日にすべての海上櫓が撤去された。約1年半に及ぶ海上阻止闘争は、市民の勝利のうちに終了した。
論文では、この第一次闘争の特徴として、①運動目的の複合性、②参加者の多様性、③闘争手段の幅広さ、をあげている。こうした特徴は、14年7月7日から始まる第二次辺野古新基地阻止闘争にも受け継がれた。
しかし、第一次と第二次との決定的な違いは、強硬に抗議行動を押さえ込もうとする日本政府の方針転換であった。12年に再登場した安倍晋三首相(当時)が描く、「戦争できる軍事国家日本」の第一歩として、早急な辺野古新基地建設の完成が「国策」として進められた。その「先兵」となったのが、海上保安庁・警察機動隊等である。
海での抗議活動に対し、「中立」あるいは「仲裁」の立場を維持していた海上保安官が、市民の小型船舶やカヌーによる抗議行動への暴力的弾圧を強めていった。数100馬力のゴムボート(GB)に乗った海保隊員による暴力的逮捕術による拘束が頻繁におこなわれ、頸椎捻挫などの大けがを負い病院に通うカヌーメンバーが続出した。小型船舶も海保隊員によって沈没させられた。
私も、やっとカヌー操作に慣れたころ、大きな波とうねりで荒れていた大浦湾で海保に拘束され、GBで約300メートルも沖に連れていかれたあげく、「ここで解放だ」と放置された。途方に暮れながらも、とにかく陸地が見える長島と平島の間をめざしてカヌーを漕ぎだした。海はさらに荒れており、2、3メートの大波が次々と押し寄せていた。
ちょうど、長島と平島の中間点に達した時、大きな波にカヌーが乗せられ、気が付くとさらに大きな波が斜め後ろから迫っていた。とっさに、身体をカヌーごと大波に預けることによって、辛うじて転覆を免れた。
平島で見守っていたベテランの山さんからは、大声で、「潮の中間ではなく、長島寄りに漕ぐんだ」とアドバイスされたが、まだ初心者だった私には、指示どおりに操作する余裕はなかった。後ろからカヌーをサポートしてくれていたゴムボートの存在にも気づいていなかった。
あとで、サポート員から「もう転覆すると思いましたが、よく切り抜けましたね。どこであんな技術を獲得されたのですか」と聞かれたが、「必死でしたから」としか答えられなかった。干潮時に長島と平島の間を通過して、ぞっとした。そこはリーフが長く広がっており、沖から来た波がリーフにぶつかって大波を発生させる場所だったのだ。
数か月後、長島寄りのフロートの起点から侵入したとき、慌てたGBが猛スピードで近づき海保員が私のカヌーめがけて飛び乗ってきた。普通はカヌーの最後尾を抑えるのだが、海保員がカヌーに足をかけたため転覆させられた。GBに乗ってから、「カヌーはGBの千分の一もない木の葉のようなものだ、たとえ、すり抜けたところで、GBにすぐに追いつかれる。なぜあんな危険なことをするのか」と抗議した。珍しく、その隊員は「済みませんでした」と謝ってくれた。 
当初は海保隊員も上からの強い命令を受けて、安全に配慮する余裕がまったくなかった。海の安全を守るのが海保の若者たちの使命と誇りであったはずが、安倍と日本政府が権力の「手先」に変えてしまったのだ。(住田一郎)