フランス革命期の政治家、ジュルジュ・ダントンの像

フランスで死刑が廃止されたのは、ミッテラン大統領の時の1981年だ。法務大臣を務めていたロベール・バタンデールという人の尽力だった。その当時西ヨーロッパで死刑を存置していたのはフランスだけだったそう。ちなみに驚いたことには、処刑方法は死刑が廃止になるまでギロチンだ。(ウィキペデアによる)
これから述べていこうとする恐怖政治を主導したロベスピエールは、革命勃発直後は死刑制度に反対していた。人間変われば変わるものである。
マキシミリアン・ロベスピエールは、1758年にフランス北部のアラスという町で生まれた。1764年に母親が出産の時に亡くなってしまい、父親もそのことのショックから家を出ていった。ロベスピエールや妹弟は親戚に預けられて育った。
11歳の頃に成績優秀で奨学金を得て、パリのルイ・ル・グラン学院に入学、後ソルボンヌ大学の法学過程に進み、1781年、パリ高等法院の法廷弁護士に登録されたのだった。
以前にも述べたが、その頃のフランスは財政危機に瀕していた。何とか解決策を見つけようとルイ16世は170年ぶりに全国三部会を召集する。全国三部会が開催される1789年5月5日の前の1789年4月24日にロベスピエールは、故郷のアルトワ州で第三身分の代表の一人として選出された。
ロベスピエールの議員活動の拠点となったのが、ジャコバン・クラブである。ジャコバンというのは、ドミニコ会のジャコバン修道院の建物設立された「憲法友の会」がジャコバン・クラブとして知られるようになったのだ。ジャコバン・クラブは全国に会員数も1790年には1000名を超え、全国に150以上の支部もできている。
ジャコバン派は、フランス革命をどう推進していくかを活発に論議する場となり、特にロベスピエールはリーダーとして発言を強めていった。この辺を革命党派としての原型をレーニンは観たのかも知れない。
よく知られているようにフランスの議会(国民公会)には、立憲君主派のジロンド派、平原派、山岳派の議員たちが論議をしていた。ジロンド派の人達は、元々ジロンド県(ワインで有名なボルドーのある県)出身が多く、経済的に豊かな人も多かった。したがって財産家、大商人などの代弁者になっていた。一方ジャコバン派は、中流市民層や民衆の利益を擁護するようになっていく。
両派には「エリート指向」対「民衆擁護」、「地方」対「パリ」の反目もあった。ジャコバン派の議員はパリ選出の議員が多かった。そして、パリは独自の政治勢力として国民公会とは別に力を持っていたのだった。バスチーユ襲撃や9月暴動など革命運動をけん引してきたのは、パリのサンキュロット達だった。そういう動きはジャコバン派も認めざるを得ず、ロベスピエールの主張も社会主義的(最高価格法)「自由より生存」なものになっていった。
ジロンド派とジャコバン派の主導権争いに決着をつけたのはやはりパリの民衆だった。食糧問題に苦しみつつも革命防衛の意気上がる民衆は、5月31日に武装蜂起し、6月2日には8万人が国会を包囲した。武装した民衆の圧力の下でジロンド派議員29人の国会追放が決議されたのだった。
6月24日に「93年憲法」が公布された。この憲法には労働権、教育権が明記され、「政府に対する蜂起権」も認められていた。が、ジャコバン派を中心とする革命政府とすれば、外国からの干渉と国内の反革命勢力との戦いに勝ち抜かなければならない訳で、それらの闘いに勝利するまでは施行は延期になり、非常事態を乗り切るための独裁体制の構築となった。
フランス大革命の理想「自由・平等・人権」を守り実現するための独裁と恐怖政治。なんというパラドクス。ジャコバン政府の独裁、恐怖政治を支えた機関として「保安委員会・公安委員会・革命裁判所」がある。「保安委員会」は警察機能を有し、反革命を革命裁判所に送った。「公安委員会」は、政府の統治機構を担った。
1793年の秋から1794年7月27日(テルミドールのクーデター)までの恐怖政治の期間に50万人が反革命容疑者とされて収監され、約16000人がギロチン送りになったという。ロベスピエールはジャコバン派のダントンもエベールも死刑にした。
革命暦のテルミドール(熱月9日)、国民公会でタリアンがロベスピエールの避難演説を始める。国民公会の議長も反ロベスピエール派のコロー・デルボアという人物でロベスピエールの発言を封じ、ロベスピエールら5人が逮捕されたのだった。ロベスピエールは、逮捕される際に拳銃であごを撃ち砕かれ、血まみれの状態でギロチンにかけられた。
翌テルミドール10日、ロベスピエールら22人が正式な裁判もなく革命広場で処刑された。10日から12日の3日間でロベスピエール派の105人が処刑されたという。過ぎたるは及ばざるがごとし。(こじま・みちお/つづく)