栗生楽泉園内に建てられている『人権の碑』

涼しい避暑地のはずが、むせかえるような暑さの中、国立療養所栗生楽泉園(群馬県吾妻郡草津町)を訪れました。そこには重監房資料館がありますが、残念ながら休館日で入れませんでした。
資料館の裏手は草地になっており、そこに立派な納骨堂がありました。その一角に「納骨堂からの遺言」として『人権の碑』が建てられており、次のように記されていました。
「無念にも亡くなった二千を超える魂が眠っています。死んでもふるさとの墓に入れない私たちと、生まれることを許されなかった胎児の遺骨です」
「『らい』(ハンセン病)に感染した私たちは、百年以上の永きに亘(わた)り、社会から排斥され、療養所という名の『収容所』に隔離されました」
「『無らい県運動』を通じて偏見・差別・恐怖感は国中に広まり、残された家族は一家離散、一家心中などの悲劇の道を歩んだのです」
「断種・堕胎・強制労働などの処遇に反抗的だと見なされると『重監房』(特別病室)に投獄されました。暗闇、極寒、飢えの中で二十名余の人が命を落としたのです」
「しかし私たちは国と園当局に必死に対峙し、団結して人権闘争を闘い、… そして2001年5月らい予防法違憲国家賠償訴訟で勝訴しました。一世紀にわたる国の政策が断罪されたのです」
さらに碑文の最後はこう締めくくられていました。
「私たちは人間の空を取り戻しました! まさに太陽は輝いたのです!」
「この私たちの勝利は社会に存在する不当な人権侵害を克服するための大切な拠(よ)り所にしなくてはなりません」
『人権の碑』の近くには入所者自治会が2019年に建立した悲しい『碑』もありました。1933年から2024年までに亡くなられた入所者の人数が年毎に列挙されていますが、そこに名前はありません。
私は沖縄で平和の礎(いしじ)に刻まれた戦没者の名前を手でなぞりながら涙を流す遺族の姿を思い起こしたのですが、この『碑』には名前がないのです。ハンセン病差別には名前も刻めない重さがあります。『碑』の一番上に「いつの日か、その名を刻めることを願って」とありました。差別は過去のものではないと、胸を抉られる思いがしました。帰路、今は「つつじ公園」と名付けられた重監房の跡地がひっそりとありました。
ここで餓死や凍死が続出し、廃止までの9年間にのべ93人が収監され、その内23人が亡くなりました。
6月1日神戸市内で「ドローンから見た沖縄、辺野古」集会が行われましたが、講師の奥野政則さんが、「奄美大島生まれで両親がハンセン病だったこと。発病の理由は戦後の不衛生な生活と戦争にあったこと。それに気付いて沖縄の基地と闘う決意を固めた」と自己紹介されました。
また、現在も続くハンセン病差別との闘いに「菊池事件」の再審請求闘争があります。これはあるハンセン病患者の男性が証拠不十分なまま逮捕され、1962年に死刑にされた事件です。男性は差別ゆえに裁判所での正当な裁判も受けられず、ハンセン病患者専用の菊池刑務所(現熊本県合志市)内の「特別法廷」で死刑を宣告されたのです。今年7月7日、熊本地裁で再審を認めるかどうかの審理で三者協議が行われ、来年1月に裁判所が判断するとなっています。(朽木野リン)