
連日ガザでイスラエル軍による非道な殺りくがおこなわれている中で、イスラエル在住のユダヤ人青年のインタビュー映像をテレビニュースで見た。彼はパレスチナ人が全員イスラエルから出ていくまで戦闘を続けるべきと話していた。インタビュアーが、「パレスチナ人は先住民ではないのか」と問うと、青年は「違う。イスラエルは2000年前からユダヤ人のものだ。それは聖書に書いてある」と力説した。
「正気かよ、こんな理屈でガザの人たちは殺されなければならないのか」と思い、この本『ユダヤ人の歴史』を読み始めた。途中でイスラム教の知識も必要と感じ、イスラム学者の中田考の『イスラム 生と死と聖戦』も参考にした。
前述のユダヤ人青年は「2000年」と言ったが、ユダヤ人の歴史は実は3000年以上にさかのぼる。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教のいずれもが旧約聖書に基づいており、信仰する神も同一である。これは驚きだ。ユダヤのモーセに十戒を授けた神も、イエス・キリストの父なる神も、イスラム教のアッラーも同一の神であり、キリスト教もイスラム教もユダヤ教から派生した宗教である。世界の人口は81億人と言われるが、この三つの宗教の信者を合わせると35億人になる。世界人口の4割以上を占めているのだ。
三宗教はいずれも「世界を唯一司(つかさど)るところの同じ神」を信仰していることはお互いに認め合っているが、「神の道に到達するための考え方や実践」に相違があるという。しかし、その相違がなぜホロコーストにまでいたるのか … やはり、わからぬままに読了した。
ディアスポラ(離散)
四大古代文明は、中国の黄河流域、インドのインダス川流域、エジプトのナイル川流域、メソポタミアのチグリス・ユーフラテス川流域で発祥した。大河のもたらす肥沃な土地に文明は生まれる。後者の二つは、砂漠気候で治水・かんがいが不可欠だった。
そのために大量の人員が集められ、結果、強力な王国が成立した。エジプトとメソポタミアはそのようにして強大化したのだ。この二大王国の間に位置するパレスチナ(当時はカナンと呼ばれた)は、地中海性気候に属し、緑が豊かである。さまざまな文化が交錯する地域でもある。しかしそれゆえに、まわりの大国の抗争に巻き込まれることにもなり、古代イスラエルの民はバビロニア王国やアッシリア王国に強制移住させられる。この時、モーセの信仰を引き継いだ古代イスラエルの民の内、旧ユダ王国の人びとだけが、やがてユダヤ人と呼ばれる存在となる。
彼らは異境の地で、いつか故郷の地に戻る時まで、信仰を守るためにアイデンティティを重視し、律法を整備していった。
ユダヤ人が世界中(特にヨーロッパ)に離散して差別と迫害を受けてきたことは、多くの人が認識しているが、それは離散が始まった約2000年の間にさまざまな経過をたどっている。そのひとつとしてローマ帝国との関係が大きい。カナンはローマの属州とされていたが、西暦135年、ユダヤ人のローマ帝国への反乱と大敗で、エルサレムから根絶されるに到った。
このことだけが理由ではないが、以来、ユダヤ人は本拠地を持たない離散民として長い歴史を歩まざるをえなくなった。7~13世紀までは、世界のユダヤ人の9割はイスラム諸国に暮らすようになる。
キリスト教とイスラム教の発祥
話は前後するが、イスラエル北部・ナザレのユダヤ人の家にイエス・キリストが誕生した。彼は「ユダヤ教の改革」を訴えるが、ローマ帝国のユダヤ人支配の秩序を乱すとしてローマによって処刑された。しかし後年、西暦392年には、キリスト教は公認されローマの「国教」となった。このことはヨーロッパにおいてキリスト教が繁栄する大きな歴史的出発点となる。
イスラム教は610年頃、メッカ(現在のサウジアラビア)のアラブ系の名家に生まれたムハンマドが創始者である。やはり「ユダヤ教の改革」を訴えた。一貫してマイノリティの道を歩んだユダヤ人と違い、イスラム教は当初から地域に侵攻(布教)してイスラム国家を拡大していった。
イスラム教とユダヤ教の関係は類似性も高く、キリスト教に比べると比較的良好な関係性を歩んできた。イスラム教は、ユダヤ教のモーセも、キリスト教のイエスも預言者として認めており、元来は寛容でゆるやかな宗教である。この三つの宗教はいずれも今で言う中東地域で生まれている。
スファラディームとアシュケナジーム
ユダヤ人の離散の2000年を書評としてまとめるのは紙面的にも力量的にも難しく、いきなり近世(ヨーロッパ史ではおおむね16世紀から19世紀初頭)にとぶが、世界の中で西ヨーロッパの躍進が目立った時代である。西ヨーロッパでは大航海時代で世界に進出(侵略と奴隷制)し、宗教改革があり、その後の近代化の諸条件が準備された。
ユダヤ人の、商業面でも学問面でも卓越した力を雇用・利用してスペインは発展したが、15世紀末までにユダヤ人は追放されるに到る。彼らはスファラディームと呼ばれ、現在のユダヤ人人口の2割を占める。スファラディームの過半数の移住先となったのはオスマン帝国である。オスマン帝国は16世紀半ばには全盛期を迎え、東はイラク、南はアラビア半島の西岸やエジプト、西はアルジェリア、北はハンガリーやウクライナ南部までを支配した。
ユダヤ人は商業や金融業にたけ、印刷技術、医療などでもオスマン帝国の経済を強化する上で絶好の人材だった。さらにユダヤ人は地中海からインドにいたる交易路でも活躍した。17世紀末になるとオスマン帝国は衰退期に入り、ユダヤ人は当時経済が唯一好調だったオランダに移住。スファラディームはアジア系の人たちが多いと言われている。
ユダヤ人のもう一つの系統(8割を占める)はアシュケナジームと呼ばれる。彼らはドイツ方面から移民したと言われるが、実際にはドイツでの迫害(追放・ゲットー)でユダヤ人はさらに東方へ逃げた。ポーランドは当時西欧向け穀物の一大産地として栄え、ユダヤ人の入植も歓迎された。ポーランドの全人口約1000万人の内、20~50万人がユダヤ人で、これは世界のユダヤ人口の3分の1を占めていた。西欧と違いポーランドでは小規模貴族の数が多く、彼らはユダヤ人に土地の管理や農民からの徴税を任せた。ポーランド・リトアニア共和国はベラルーシやウクライナ中部まで及ぶ大国に成長した。貴族からするとユダヤ人は有能で便利な存在だが、農民たちからは「貴族の手先」として憎まれた。
「ユダヤ人=農民の搾取者」という意識は反ユダヤ主義を増強させ、1648年のフメリニツィキーの乱ではウクライナのユダヤ人の半数が殺害された。その後、ポーランドは18世紀末にはロシアとドイツとオーストリアの間で分割され、国家としては消滅した。
フランス革命とユダヤ人
その後、西欧に移住したユダヤ人は差別的隔離の結果ではあるが、ユダヤ共同体を作って助け合い、自治も認められていた。さらに1789年のフランス革命と人権宣言以降、国民会議は「ユダヤ人解放令」を議決した。国民国家の特徴である民衆の平準化により、ユダヤ人にも市民権が与えられた。結果としてユダヤ共同体は消滅するものの、このフランス国家の政策は19世紀のヨーロッパ主要都市のユダヤ人人口を急増させた。
しかし、1848年のフランス2月革命ではユダヤ人は積極に参加したが、その反動で反ユダヤ暴動が発生した。さらにロシア帝国内でのポグロムの発生で、東方から逃げてきたユダヤ人移民はドイツに逃げた。ドイツにしてみれば、遅れた野蛮な地域であるロシアや東欧から、経済的苦境やポグロムにより多くのユダヤ人がドイツ語圏の諸都市に逃れてきたということになる。1880年から1914年の間に275万人もの東方ユダヤ人がドイツを通過したと言われる。ドイツのユダヤ人シオニストは東方ユダヤ人の最終移民先として北米を考えていた。
一方、時代は資本主義の登場と社会の進歩とともに、ドイツでは芸術や文化も含む教養やドイツ市民意識と啓蒙主義が発展していた。これはユダヤ人にとっても追求していくべき真理となった。
ロシア帝国におけるユダヤ人
ナチのホロコーストの印象で、どうしても20世紀前半までのユダヤ人居住の中心はドイツやポーランドと感じてしまうが、1900年の時点では、世界のユダヤ人口の約半数520万人が暮らしていたのはロシア帝国である。次にオーストリア・ハンガリー帝国の207万人、次いで米国の100万人、ドイツは四番手の52万人に過ぎなかった。
なぜこれだけ多くのユダヤ人がロシア帝国に集まっていたのかといえば、当時のロシア帝国の巨大さにある。ウクライナ東部・南部、ポーランド、リトアニア、ベラルーシ、モルドヴァに相当する地域にロシア帝国がその支配を拡大したからである。ユダヤ人にすれば、かつて「歓迎」「誘致」されたポーランドが、今やロシア帝国に飲み込まれたということだ。
離散したユダヤ人はどの国にいてもマイノリティだったが、ロシア帝国においては例外だった。1900年時点のドイツでは全人口に占めるユダヤ人は1%のみだが、ロシア帝国では全人口の4.1%を占め、都市部に限定するとそのパーセンテージは急増する。ベラルーシのミンスク県で59%、ウクライナのポドリア県で46%、リトアニアのヴィルナ県で43%、ユダヤ人居住に厳しかったキーウ県でも31%と、もはや都市部ではユダヤ人はマイノリティではなかった。
1881年、ロシア帝国では農奴解放令や地方自治の先駆けをつくるなど専制政治の後進性からの脱却をはかろうとしたアレクサンドル三世が暗殺された。以降、ユダヤ人へのポグロムが頻発するようになった。ロシア帝国の農奴解放後は、農民を解放する一方で、ユダヤ人にとっては致命的な打撃となった。農奴制の下でおこなっていた手数料収入や農作物の調達先の喪失となったのだ。また小商いや零細商店や行商も難しくなり、資本主義の発展の下でユダヤ人もまた工場労働者になるものも多かった。
ユダヤ人の経済的困窮は、19世紀終わりから1920年代初頭にかけて、西方、特に北米への大移民となった。156万人のユダヤ人北米移民の内、7割がロシア帝国からだった。被差別民にとって教育は差別を乗り越える手段であり、ユダヤ人はとりわけその意識が高い。ロシアに残った者たちは弁護士や医師を輩出するも、それにたいしても割当制でもってユダヤ人は弾圧され、西欧に留学をせざるを得なくなった。そこでユダヤ人はマルクス主義をはじめとした革命思想を学び、ロシアに帰ってツァーリ体制打倒の闘いを促進する存在となっていった。
ロシア革命時、第一次世界大戦から1918年に始まる内戦期のポグロムは桁違いの規模に拡大し、5万~20万人のユダヤ人が殺害されたとされる。ポグロムの中心となったのはウクライナだった。ロシア革命時の赤軍があり、白軍があり、加えてウクライナ民族主義者の三つ巴(どもえ)の内戦で5万~6万人のユダヤ人が殺された。その結果、50万人のユダヤ人が難民化し西欧に逃げた。
これらの被害に対して、関係政府や国際機関はほとんど検証も補償もおこなわなかった。かわりにサンクトペテルブルグの「戦争被害者支援ユダヤ人委員会」やニューヨークの「アメリカ・ユダヤ人共同配給委員会」だけが、傷ついたユダヤ人の救済に奔走した。結果的に「ユダヤ人のことはユダヤ人しか助けてくれない」とする結束が高まっていった。

ナチスの人種主義とホロコースト
ここまで見てきたように、ナチスのホロコースト以前から、ロシアで、ウクライナで、ポーランドで農民や市民による数々のポグロムがおこなわれてきた。しかし戦後、公式に謝罪したのは西ドイツ政府だけで、他は実質上不問に付されている。その上でナチスの犯罪について以下見ていきたい。
ドイツ政府はそれまで「宗派」として捉えていた「ユダヤ人」概念を「人種」として捉え、血統で他のドイツ国民と線引きし、国籍付与も控えようとした。近代の反ユダヤ主義は中世のキリスト教由来のそれとは違って、人種主義的な傾向を増すようになっていった。特にナチスはドイツ人の優越意識と東欧やロシアへの侮蔑意識と「人種衛生学」のような科学的装いで優生思想を宣伝した。ユダヤ人の中にも人種衛生学者や優生学者がおり、当時としては真面目な科学だと信じられていた。ユダヤ人を周囲に同化することで「ユダヤ人問題」を解決するという議論に対して、「ユダヤ人は独自の『人種』だから同化は不可能」という論陣を張る向きもあった。
現在の科学では「人種」問題はどのように考えられているかといえば、そのような杜撰(ずさん)な概念は使用されない。外見的特徴などの境界はグラデーションでしかないし、生物学的には表層に過ぎない。気候など居住環境の相違にもとづく外見的特徴を恣意的に分類し、それを中身に結びつける発想に問題があり、それに社会学的な意味を持たせたのが人種主義の歴史である。
ヒトラーは『わが闘争』(1925年)で「どこにいても害悪を与える『病原菌』」とユダヤ人を罵倒した。1939年ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まった。ゲットー(周囲を壁で囲った街区)がポーランド各地に作られ、例えばワルシャワ・ゲットーには45万人が収容されていた。それらがさらに絶滅収容所でのガス室や餓死につながり、最終的に600万人のユダヤ人が犠牲となった。
ホロコーストでのユダヤ人の死者は、ドイツでは意外と少なく16万人ほどである。多いのはソ連と東欧で、アウシュビッツ収容所などがあったポーランドの300万人、ソ連の100万人、チェコスロバキアの21万7000人、ハンガリー20万人 … と続く。アウシュビッツ強制収容所では、ポーランド人の政治犯やソ連軍の捕虜に対するガス殺が始まり、1942年からユダヤ人に対するガス殺が本格化する。これらの地域にナチスが侵攻したことが最大の要因だが、歴史的差別にもとづく現地人の協力があったことは否定できない。
イスラエルのユダヤ人
ホロコーストにより世界のユダヤ人口1700万人(1939年)の内、600万人が死亡し、人口の中心は米国の450万人が世界一となるが、1920年初頭にはアメリカ政府は厳しい移民制限を導入した。ソ連(東側陣営を含む)はホロコーストでユダヤ人口の3分の1を失ったものの、200万人が残っていた。
以降、この書評はパレスチナ(イスラエル)に限定して述べたい。
第一次世界大戦終結(1918年)までのパレスチナはシリアやレバノンと同じくオスマン帝国の一部であった。当初、ユダヤ人はパレスチナに暴力的に侵入したのではなく、土地を購入して入植していた。しかし、土地の代金を手にしたのはシリアやレバノンの不在地主たちで、実際に土地を耕していたパレスチナ人たちは生業を奪われていった。
ユダヤ人入植者は一般的な移民ではない。第一に、イスラエルは神がユダヤ人に与えるとした『約束の地』であるという信仰・信念がある。第二に、彼らはこの土地の「主人」として乗り込んできた。その意識は典型的なヨーロッパの植民地主義者と同様である。文明の「進んだ西洋」に「遅れた東洋」を対置するという思考(オリエンタリズム)でアラブ人に対応した。ただ当初はさほど排他的ではなく、それなりの「共存」を考えていた。ユダヤ人とアラブ人の対立を激化させたのは、何よりもイギリス帝国主義である。
イギリス政府は有名な三枚舌外交を使った。アラブ人には「独立国家建設」を約束し、ユダヤ人にはパレスチナに「ユダヤ人の民族的郷土」を設立することが好ましいと、矛盾する約束を行ったのである。イギリスの本音は、地中海からインドに抜ける紅海ルートやイラクの石油利権の確保であり、アラブ諸国に対する植民地支配の強化以外のなにものでもない。1918年にオスマン帝国が敗戦すると、イギリス軍はパレスチナに駐留を続け、国際連盟から「委任」という形で正式にイスラエル統治を開始する。
その後、イギリスが一向に約束したはずの政策である「アラブ独立」に舵(かじ)を切らないことへの不満が爆発し、民族対立が激化し、アラブ人のユダヤ人シオニストに対する反乱が発生する。アラブ人たちの反乱は反植民地的な正当かつやむを得ない要素を含むものであったが、シオニストは、かつて自分たちユダヤ人が受けた「ポグロムと同じだ」と表現・宣伝した。このような認識には、土地を奪われていくアラブ人の苦悩や恐怖に対する理解が全くなく、紛争の原因を巡って大きな溝ができていった。
1929年、大規模な暴力事件(嘆きの壁事件)以降、ユダヤ人とアラブ人の対立激化に加え、1936年から39年にかけて、イギリス帝国主義に対する抵抗運動が吹き荒れた(アラブ大反乱)。
また、1924年の米国移民法成立という厳しい状況下、最大の移民先を喪失したユダヤ人たちは追い詰められていった。シオニスト過激派は地下軍事組織を作って凶暴化し、イギリス政府と闘った。一方、シオニスト右派のテロ組織はデイル・ヤーシーン村事件で、アラブ人107名を虐殺するに至った。
このような事態でイギリスが対応しきれなくなると、1947年にパレスチナ分割決議が国際連合で採択された。それは「人口の3割のユダヤ人に6割の土地を与える」という不公平きわまるもので、アラブ諸国は猛反発した。翌月にイギリスが委任統治を終了させ、1948年5月、イスラエル建国が宣言される。この時点でユダヤ人は72万人。離散民であるユダヤ人にとって「史上初めての主権国家」である。それは同時に、アラブ諸国との間での第一次中東戦争の開始となった。
この過程で少なくとも70万人のアラブ人たちは隣国のヨルダン、シリア、レバノンに難民として逃れ、またイスラエル国内でもヨルダン川西岸やガザに追いやられた。それ以外のイスラエル領に辛くも残ったアラブ人は16万人弱で、イスラエル政府は国際的体面もあり国籍を与え統合を狙った。
以上、時代を追ってユダヤ人2000年の歴史を簡略化して記してきた。1993年のオスロ合意、ラビン元首相暗殺、オスロ合意の形骸化など語りたいことは多々あるが、紙面の関係上、現在のガザ情勢に移りたい。
1961年、アルゼンチンに潜伏していたナチスのアドルフ・アイヒマンをイスラエルの諜報機関モサドが捕らえて、イスラエルに連行し、裁判にかけ、翌年処刑した。アイヒマンはアウシュビッツ強制収容所でのユダヤ人虐殺の責任者であり、この事件でホロコーストがあらためて世界的に脚光を浴びた。
イスラエルでは、アラブ人・アラブ諸国からの攻撃や非難もおしなべて、ホロコーストやポグロムのアナロジーで、自らを被害者として捉える。これをイスラエルの社会心理学者ダニエル・バルタルは「概念拡張」と説明する。2023年10月7日のハマスのガザ蜂起も、ユダヤ人は被害者としての自己はあっても、そこまで追い詰められたパレスチナ人民に対して、自分たちユダヤ人がどれだけ迫害を重ねてきたかの思考経路はない。すべて被害者としてのホロコーストの「拡張」でのみ認識される。
米国とユダヤ人
最後に、イスラエルの最大の支援国アメリカについて述べたい。
2024年現在で米国には、イスラエルのユダヤ人口700万人超に拮抗する600万人のユダヤ人がいる。イスラエルロビーは米国における外交分野で最強のロビー団体である。アメリカのユダヤ人はほとんどが民主党の地盤である大都市に居住し、7割前後が民主党支持と言われている。
無条件にイスラエル支援をしがちな共和党に対し、民主党はある程度距離をおくことがある。21世紀に入って、イスラエルが右傾化するに従い、イスラエルと距離を置くユダヤ人は増えている。
米国ではヨーロッパと比べて反ユダヤ主義は格段に弱い。なぜなら、アフリカ系やアジア系など、他に鬱憤の受皿となる差別に「適した」存在があるからだ。貧困や迫害のゆえとはいえ、自らの意思で移民し一世代で階級上昇したユダヤ人に比し、アフリカ系アメリカ人は奴隷制を起源とし、差別と貧困、教育の不足という悪循環の渦中にいまだにある。
アメリカ政府のイスラエル支持の理由には、キリスト教福音派の存在がある。新約聖書の「ローマ信徒への手紙」11章を根拠とする教義で、「ユダヤ人がパレスチナに結集し国を建てイスラエルを再興する」ことが「神の国」の実現のための前提となるとしている。これが「キリスト教シオニズム」の思想の核心であり、20世紀半ば以降の米国で巨大な力を持ち、福音派は米政府に対してイスラエルロビー以上の影響力を持つと言われている。キリスト教徒がそのような主張をすることは、なかなか理解し難いが、この「論理」と「教義」がガザの人びとを連日虐殺しているのが現実だ。
ユダヤ人の中にも反戦の声
ガザの事態にたいして、米国内でその非道に怒り、起ちあがっている学生・市民の中にユダヤ人も多いと聞く。イスラエル国内でも自国政府のあり方に疑問を持ち、弾圧を受けながらも声を上げているユダヤ人もいる。かつて暗殺されたラビン元首相のイスラエルとパレスチナの「共存」の主張に思いをはせる人も出てきている。
2000年の差別の歴史、そしてナチスのホロコーストというトラウマは簡単に払拭されるとは思わないが、イスラエルの民に宗教のくびきから解放されて、冷静に客観的な思考に戻るべく起ちあがってほしい。ユダヤ人とはかつて人類の歴史に画期をなす卓越した人士を輩出した民族ではないか。社会の変革者としては、マルクス、トロツキー、ローザ・ルクセンブルグなどがすぐに上げられる。科学の発展という面ではアインシュタインをはじめ数えきれないほどだ。エンタテインメントの世界ではスピルバーグなど、賛否はともかく世界の政治・経済を揺るがしたキッシンジャーやザッカーバーグ、そしてイエス・キリストもユダヤの民だったではないか。(想田ひろこ)
