日本における左派・リベラルの衰退は著しい。「新左翼」だけでなく既成政党も同様である。社民党は衆議院で1議席、参議院で2議席。共産党は衆議院で8議席、参議院で11議席まで減少。機関紙「赤旗」はピーク時の380万部から85万部にまで落ちこんでいる。国政だけを語っているわけではないが、私たちの身近な市民運動でもほぼ高齢者中心で、若者の参加が少ない。
ところが、「政治には関心はないし、選挙も行かない」というのが若者のパターンであったはずが、2024年東京都知事選、衆院選、兵庫知事選などで一気に若者たちが動いた。彼らは既成の政党やマスコミを否定・拒否して、SNS情報を自らの判断基準として選択した。「あんなデマになぜダマされるのか」と嘆いていても、そこには若者たちなりの根拠があるはずだ。どうしてなのか、私たちはどこが間違っていたのだろう。
以下は、老いた頭を悩ませて考察してみた試論(私論)である。

関西生コン支部、全港湾大阪支部などが250台の生コン車、トラックで大阪市内をパレードした=2018年

労組再編の方針の無さ
1990年代にバブルが崩壊し、春闘型の労働運動が不可能になった。その後、新自由主義が本格的に導入され、労働市場においても非正規雇用が4割近く(青年や女性では5割)に拡大した。従来の労働運動が存立する基盤がもはやなくなったのだ。 
正規職だけを組織した企業別労組ではなく、欧米のように産業別個人加盟労組に早期に移行すべきだったが、日本の労組指導部や指導政党は混迷するだけでそれを怠った。今や労組の組織率は20%を割る。何故、関西生コン支部に国と資本の攻撃が集中するのか、その存在の大きさを改めて確認できる。
「産業別個人加盟労組などは絶対に許さない」という強固な国家意思がそこにある。政府は、春闘大会に首相を招いて喜んでいるような懐柔しやすい連合型労組のみ許して、階級支配を有利に運び停滞する日本資本主義の建て直しに必死である。
私たちが労組の再編に致命的に遅延したことが若者たちを苦境に追いやり、失望させてしまったのではないか。関生支部を守ることを先頭に、日本中に産業別個人加盟労組を作る方針を訴えていきたい。

新しい社会主義変革の道を示せず
1991年、ソ連が崩壊して資本主義化することで冷戦が終結した。さらに、経済的に行き詰まっていた中国やベトナムが外資の導入や市場経済・私的経営容認で一気に躍進した。これは「社会主義神話」が崩壊したということ以外にない。
この情勢に対して的確な分析と方針を発することができた党派は全く存在しなかった。これは多くの左派活動家やリベラルな市民たちをがく然とさせた。私自身もその一人であり、「今まで信じてきたもの、人生をかけて苦労して来たことは何だったのか」と、先が見えなくなってしまった。
本来ならこの歴史を画する事態にたいして、混迷のなかにあっても社会主義者はマルクスやレーニン主義の絶対化から脱却して、深い思想的葛藤をともなう研究のし直しが必要とされたのだ。世界の動向を見れば、多くの社会主義者がマルクス以来の理論と実践、「社会主義国」といわれた国々の実態解明の上に立って、新しい社会主義変革の道と国家像を明らかにする努力をしてきた。
しかし、日本ではそういった思想的潮流に学ぶことがないどころか、「小(プチ)ブル」「転向」と決めつけて無視・排除したのではないだろうか。レーニン主義との決別については『未来への協働』の中では、ほとんどの共通認識だろうから、マルクスについてだけ少し述べたい。
マルクスを解説する力量など私には全くないが、資本主義というものを解析した歴史的偉業をなしたのは間違いない。しかし彼の死から142年が経つ。その間、世界は全く静止していたわけではなく、かつてない激動を経験してきた。マルクス理論を絶対化するのではなく、相対化して「現代を分析する」ことが世界の社会主義者に求められてきたのだ。マルクスは1920年代の世界恐慌も、第一次・第二次世界大戦も、冷戦も、… そもそも1917年ロシア革命も知らない。まして新自由主義を知らないし、非正規労働者という概念も当時はなかっただろう。
私がこの様に語るのは、日本共産党の『赤旗』を見て痛感したからだ。「マルクスを勉強しよう」「マルクスに戻ろう」という呼びかけが若者獲得の主な方針になっている。昨年行われた第49回民主青年同盟の参加者の感想から学習会の内容がうかがい知れる。学生の一人が「資本主義が発展した先に社会主義があるという科学的社会主義を学び、社会が大きく変わる展望が見えた」と語っている。社会主義到来の「歴史的必然」なんてものはないと言ってやりたい。共産党の現状認識の甘さと方針の皆無に驚かざるを得ない。

日本共産党の解党的危機
日本共産党は1980年の第15回大会をピークにして、議席数も党勢も後退を続けてきた。「社会主義圏」の敗北で冷戦終結という世界情勢の影響もあっただろうが、それに対する党指導部の方針の余りのお粗末さに失望した党員や支持者も多かったのではないか。
自民党にソ連崩壊について質問(揶揄か?)された宮本顕治議長(当時)は、「巨悪の崩壊万歳! あれ(ソ連)は社会主義でも何でもなかった」と答えた。宮本議長の自己保身丸出しの、左翼の魂を投げ捨てた姿は見苦しい。獄中19年のなれの果てか! 良心的で民主的な人びとが共産党から離れていくのは当然だ。
今、共産党中央に批判的意見を述べて除名、除籍処分を受けた党員が続出している。その一人の鈴木元氏が『革新・共同党宣言―日本共産党に未来はあるのか? 党歴60年の経験から提案する民主勢力再生のための試論』を出版した。
鈴木氏の略歴は「1944年大阪生まれ、高校時代に60年安保闘争を経験し、18歳で共産党に入党。立命館大学で部落解放同盟の大学介入や全共闘の大学解体攻撃と闘い民主化を進めた」とある(このあたりで反論したいところだが我慢)。鈴木氏はその後、京都を活動拠点にした党幹部として人生のほとんどを共産党に尽くしてきたが、2023年に『志位和夫委員長への手紙』を出版し、問答無用に党から除名処分され、権力の謀略の手先と決めつけられた。加えて除名処分に反対した他の党員も除籍処分。このことに象徴される党中央のあり方は党内からも厳しい批判を受けて、その後の選挙で雪崩を打つように敗北を重ねた。「出版する前に党内で意見を述べ、討論を重ねなかったのか」との意見もあるだろうが、それは不可能なのだ。
そもそも党内では、会議で意見を言う前にその内容について指導部の許可を得なければならない。つまり自由討論などは実質禁じられているのである。
鈴木氏はさらに党内の実態を以下のように語る。「離党・未活動が進み、半分近い党員が『赤旗』を購読せず、党費を納めず、会議に出席せず、行動参加率はさらにその半分という解党的状況」。なぜこんな党になってしまったのか、その原因を、鈴木氏は第一の要因として「民主集中制という組織原則」にあると断言している。

民主集中制という独裁
「民主集中制」はレーニンが指導していたコミンテルンから導入されたものである。「ツァーリ(皇帝)による専制国家であったロシアでの革命は軍隊的組織でなければならない」という見解に基づく。
1903年のロシア共産党第二回大会でも民主集中制は課題化されるが、まだ「批判の自由と行動の統一」と柔軟であった。レーニンはロシア革命後の1921年党大会で緊急動議として「分派禁止」を提出し、参加者に強硬に認めさせた。その後ボルシェビキ以外のメンバーの意見は「分派」すなわち「反革命」と断定され、秘密警察を使って追放・粛清へと拡大強化されていった。
分派規定は、民主集中制の「要」である。日本共産党はコミンテルンを通じてこの組織原則を学び、党中央が独裁的指導権を握り続けられる鍵として採用した。そしてこの「組織原則」は共産党から「新左翼」諸派に引き継がれた。レーニン主義という、私たちが数十年と「信仰」してきた立脚点を俎上に載せるならば、分派規定も秘密警察も強制収容所を作ったのもすべてレーニンである。スターリンはそれを引き継いだのだ。
「反スターリン主義」と「レーニン主義の継承」を共存して語ることの矛盾を私たちはもっと自覚しなければならない。ソ連政治指導部はレーニンを神格化する一方で、同志虐殺も農民殺しも反人民的なことはすべてスターリンがやったこととし、ソ連の政治体制の自己保身を図ってきた。
現在もなお、レーニン主義と民主集中制の首枷のもとにある人びとに語りたい。民主集中制とは独裁以外のなにものでもない。そのような組織原則など根本から解体して、開かれた組織や運動を構築していこう。

オルタナティブを求めて
私の50年来の友人で、同じく精神障がい者の高見元博氏が鹿砦社から『ミッシングリング―日本左派運動の失環』を発刊した。「日本左派の混迷の中に光明はあるのか。左派復活のカギを提言する!」「日本左翼を衰退させた内ゲバ主義の元祖はエセ・マルクス主義者のレーニンだった。左派衰退の乗り越えの論理である反内ゲバ主義とはレーニン否定のことだった」と彼は本の中で訴えている。次の機会にこの本の書評を書きたいと思う。
話は飛ぶが、なぜ私があえて日共批判をしたかといえば、私たちが経験してきた数十年(半世紀か)にあまりにも類似しているからだ。私は大切な友人たちを、ある日突然、党中央の都合で「反革命」と呼びたくない。「権力の走狗」とは呼びたくない。
本紙前号に載った書評『シン・アナキズム 世直し思想家列伝』には、「社会的運動は原理・理念・理想を集団的あるいは主体的な人間の力で新しい社会を実現するというものであり、根本的に自然科学とは違う。しかし『存在が意識を規定』する壁に挑み、歴史や人間社会への洞察や思索によって未来社会を構想するのは大切なことだ。自分を振り返ると、かつての「歴史的必然」の理解が「信心」に近かったように思え、反省させられる。…… 社会のオルタナティブをめざして、現実と格闘する人々の真っ白で真剣な姿に励まされる」とある。ここ数年を省みても、これほどシックリ心に入り込んだ記述はなかった。おこがましいが同じ道、同じ苦闘を歩んできた友人の格闘の声だと感じる。ありがとう。
(朽木野リン)