奄美市立奄美博物館のFacebookより

薩摩藩、島津氏とは
奄美は琉球王朝統治時代の後、薩摩・島津氏の植民地とされ苦難の道を歩むことになるが、この時代は奄美では大和世(ヤマトユ)と呼ばれる。
まず島津氏について記したい。司馬遼太郎の『街道をゆく』にはこの様にある。「戦国前期とも言うべき時代は、日本全国に無数の小豪族が山城にこもって割拠していたのだが、鉄砲の出現で大勢力に亡ぼされるか統合されるかして、ついには数カ国を統べる大勢力を出現させた」「薩摩の小勢力にすぎなかった島津氏が、鉄砲を多数用いる事によって、わずかな期間に、薩摩、大隅、日向の三カ国を統一し、大隅半島のむこうに浮かぶ種子島も併合してしまった」
鉄砲は1543年に、種子島に漂着した船のポルトガル人が伝来したと言われている。驚くべき偶然だが、種子島は砂鉄が採れる島であり、元々製鉄・鉄加工の技術があった。島津氏はこの島に武力侵攻して、ここを支配していた豪族をうち破り、鉄砲とその技術を奪い取るという「好運」に恵まれた。鉄砲は島津氏の大勢力化に大きく貢献したのである。

南西諸島の植民地化
1606年、薩摩藩主の島津家久は、琉球の「無礼」を理由に徳川家康に琉球征討を訴えて許可をえた。3年後、島津家久は琉球王の尚寧を連れて駿府(静岡県)で徳川家康に対面する。島津と徳川の目的は、中国(明)との国交回復の仲介を尚寧王に依頼(命令)することだった。
尚寧王は日本側に服従と忠誠を誓ってようやく琉球征服から2年後に帰国を許された。(明は国交を当然拒否。事情は前号記)
この時に島津家久は尚寧王に、与論島以北、すなわち奄美群島を直轄の領土にすることを承認させた。このことは江戸幕府には秘密にされ、約3万2800石を薩摩藩は略奪したことになる。沖縄島以南は「琉球王朝」の支配を認めたが、莫大な貢租を強要した。さらに「琉球王国」を通じた中国貿易の利益をことごとく奪った。
以来、1872年(明治5年)の琉球藩設置を一区切りにすれば、薩摩藩は260年以上の南西諸島の植民地的支配、収奪を行ったことになる。
大河ドラマや小説などで、幕末から維新、明治政府の「雄藩」として薩摩藩が描かれるが、それが可能となった原動力かつ経済力は何によってもたらされたか。幕末の薩摩藩主、島津斉彬は下級武士の西郷隆盛をとりたてるなど開明的君主として有名だが、彼の集成館事業(大砲製造、洋式造船、ガラス製造、地雷、紡績などの日本初の近代的な軍事・工業コンビナート)を実現させた財力は、誰によって生み出されたのか。その犠牲を胸に刻むことなく「維新は近代の夜明け」と語ることなど許されない。

砂糖地獄 黒糖奴隷
薩摩藩は当初1600年代には、奄美の農民の保護政策を取り、積極的に干拓や開墾を行わせた。藩からは奉行(代官)が派遣され、島役人が補佐して行政が行われた。税は米や小麦で納められ、サツマイモの導入で農民が飢えることもなくなった。
しかし1690年頃には、財政難あえぐ藩は米や小麦よりはるかに利益が出るサトウキビに目をつけた。当時、砂糖は非常に高価なもので、庶民が買えるものではないが、大阪まで船で運ばれて莫大な利益を藩にもたらした。最盛期には砂糖を運搬する船は200隻に上った。
藩は奄美の島民たちの生命や生活に考慮せず、米や他の作物の田畑をつぶして、無理やりサトウキビに転換させた。そのため米が不足し、1755年の凶作時には徳之島で3000人の餓死者が出た。
1747年に換糖上納(米の代わりに黒糖で税を納める)。続いて1803年には黒糖の専売制度(藩が全て買い上げ)が徹底的に強化され、密売するものは死罪となった。
さらに黒糖の増収を図るため、男は15歳から60歳まで、女は13歳から50歳まで作用夫として、各々耕地を割り当てて奴隷労働を強いた。こんなに働いても島民は一斤の砂糖も自宅に持てず、そればかりか植付反別によって産出高が予想されているので、風害などがあって収穫が減る場合でも、隠匿罪として体刑に処せられた。何と理不尽なことか! サトウキビの切株が高ければ首に罪人札をつけて村中引き回し、指先で砂糖をなめても鞭、製品が粗悪と決めつけられれば首枷、足枷にされた。
藩の絶えざる圧政に、声なき怨嗟は島中を覆った。代官所は見せしめのために村民に砂糖隠匿の濡れ衣を着せ、わざと村民の集まったところで膝に大石をのせ笞刑の拷問を与えた。恐怖の支配で島民を縛った。
江戸時代の農民への搾取は全国的には「六公四民」「五公五民」が一般的だが、薩摩藩では実質的に「八公二民」まで搾り取り、農民たちはサツマイモで辛うじて生命をつないだ。

家人(やんちゅ)という奴隷制度
さらに奄美には一種の奴隷として家人制度が作られた。家人を供給したのは、まさしく薩摩藩の恐怖政治である。重い租税を上納できぬ者や、わが身を抵当に借財したが返せなくなった者が、使用人として身売りし家人となる。借金を返せば自由の身に戻れると表向きはなっているが、年3割の利子が課せられており、解放される者はほとんどいなかった。幕末には家人は奄美の人口の3分の1にまで上ったといわれている。家人の子どもとして生まれた者はヒザと呼ばれ、これこそ生まれながらの奴隷で、死ぬまで主家につとめる身分だった。ヒザには年季もなく、その身の売買も主家の都合で行われ、ほとんど生殺与奪の権まで握られていた。結婚もヒザ同士に限られていた。過酷な待遇に耐えきれず逃亡を図ったり、自殺したりする者も多かった。発覚すればさらに過重な負担を課せられた。

民謡にみる歴史
奄美と琉球とその歴史の違いを民謡に比べて語る人もいる。「民謡の構成詩型も同じで、楽器も同じ蛇皮の三線だが、歌われる調子は天地の差がある。沖縄はいかにも明朗闊達、おのずから心身が浮き立つのに対し、奄美民謡は哀調切々むしろ悲哀の心をそそるのである」と。
それは事実なのかもしれないが、沖縄はその後に沖縄戦があり「祖国」復帰も遅れ、今なお米軍占領が事実上継続する苦難の真っ只中にある。奄美も沖縄もヤマトンチュの支配による犠牲の歴史が続いているのだ。(つづく)