ロシアによるウクライナ侵攻によって、各国は競うように軍事化を進めている。日本もまたその例外ではない。こうした現状を変革するためには何が必要なのか、その課題は何か。昨年発刊された『若者が変えるドイツの政治』(あけび書房)の著者で、ドイツ現代政治と平和研究が専門の木戸衛一さん(大阪大学大学院教授)に寄稿していただいた(4回連載)。

1975年
    東京都知事選

木戸衛一さん

私は1957年生まれで、学生運動は直接には何も知らない世代です。そもそもなぜドイツの勉強を始めたかというと、私は東京都葛飾区亀有の出身ですが、高校生のときに東京都知事選挙がありました。1975年のことです。現職はマルクス経済学者の美濃部亮吉さんで、3期目を目指していました。
当時は社会党と共産党がことあるごとに仲たがいしていたのですが、75年2月、それが背景となって美濃部さんが立候補しないと表明しました。対抗馬は若かりし頃の石原慎太郎です。当時も彼は自民党の最右翼でした。「石原ファッショ」という言葉さえありました。高校生の私は、このまま美濃部さんが立候補せず、石原都政になったらどうなってしまうのだろうと非常に強い不安を覚えました。
そのとき新聞か何かで、「これはまるでワイマール共和国のドイツではないか」という投書を目にしました。世界で最も先進的な憲法を持ちながら、本来ならば立場が近い社会民主党と共産党が「兄弟げんか」を繰り返し、その間隙を縫ってナチスが政権を取っていった当時のドイツの状況と、今の東京は似ているのではないかという趣旨でした。この文章に接して、「自分はドイツの歴史や政治を勉強しよう」と思い立ったわけです。

平和と暴力

もう一つの私の専門は、平和研究です。多くの人は「平和」の反対といえば「戦争」を思い浮かべると思いますが、平和研究の文脈では「平和」の反対は「暴力」です。
一つは「直接的暴力」です。人殺し、テロ、戦争、内乱などです。これに対応する平和の概念は「消極的平和」と言います。「戦争はもちろんいけないけれど、それがなければ平和でハッピーなのだろうか」というのが平和研究の根源的な問題提起です。
もう一つは「構造的暴力」です。さまざまな暴力が社会構造の中に埋め込まれています。一番わかりやすいのが飢餓です。生まれてきたのはいいけれども、母親がおなかをすかしていて母乳が出ない。そのために赤ん坊が数時間後には亡くなってしまうというようなケースです。そこまで極端ではなくても、「貧困」は日本でも深刻化しています。大阪大学の教授会でも、授業料が払えなくて学生が除籍になることがしばしば議題に上ります。それから、差別や搾取も構造的暴力に含まれます。
さらには「文化的暴力」があります。「人間には闘争本能があるのだから戦争はなくならない」とか、「女は男の後についてくればいいんだ」というマッチョ文化とか、直接的暴力・構造的暴力を肯定したり容認したりする深層心理を、文化的暴力と呼びます。そうした構造的暴力や文化的暴力を克服してこそ、「積極的平和」があるのです。
私の父親は東京大空襲をもろに経験していますし、母親は満州育ちだということがあって、戦争と平和の問題、暴力の問題は私にとっては長年抱えてきたテーマです。

ニーチェの警句

引用を三つ紹介します。
「狂気は個人にあっては稀有なことである。しかし、集団・党派・民族・時代にあっては通例である」(ニーチェ『善悪の彼岸』)
今、いろんな方がウクライナ戦争について論じています。よくあるのが「プーチンはまともじゃない」というものです。確かに侵攻前にフランスのマクロン大統領やドイツのショルツ首相と会談したとき、あるいは侵攻後に国連のグテーレス事務総長に会ったとき、プーチンはとんでもなく長い机の端っこと端っこに座って話をしていました。あれを見て、「ちょっとプーチンはまともな精神状態ではないのでは」と批評していた人が少なからずいました。
私は決してロシアや中国のような強権支配を肯定しませんが、西側は西側で問題だらけで、新自由主義の中で格差を広げる寡頭支配、ポスト・デモクラシー状況が進み、道化師政治家と呼ばれるような連中や、極右勢力がどんどん幅を利かせています。
最初に紹介したニーチェの言葉は、『善悪の彼岸』という短文集からの一節です。この文の前後関係や由来はわからないのですが、それにしてもこのニーチェの警句は、ひょっとするとこれから日本や世界が向かおうとしていることなのかもしれないし、それは絶対許してはならないと思います。

操作される民衆

「この地上で最も巨大な変革の原動力は、どんな時代でも、大衆を支配する科学的認識よりも、彼らを鼓舞する熱狂、また往々彼らを駆り立てるヒステリーにあった。大衆を獲得しようと欲する者は、彼らの心の扉を開く鍵を知らなければならない。その鍵は … 意志と力である」(ヒトラー『わが闘争』)
これまでドイツは、西側で極右に対する防波堤の役割を果たしてきましたけれども、このところいささかそれが怪しげになっています。ヒトラーは、ヒステリーとかファナティックというようなことを言いながら、「頭なんか使わせず感情に訴えて操作すれば、どのみち民衆はついてくるのだ」「民衆は目先が利かず、目の前のことにしか関心がないので、民衆を操作するのは簡単だ」と豪語していました。このようなかつてのドイツの状況を決して再現してはならないと思います。

人間の尊厳は不可侵

最後はドイツの憲法、基本法です。私はドイツを研究していて何がいいかと言えば、ドイツ基本法の第1条です。
「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し保護することは、あらゆる国家権力の義務である」(ドイツ連邦共和国基本法第1条)
ドイツの憲法ですが、「ドイツ人の尊厳」とはいっていない。「人間の尊厳」といっています。一国の憲法とはいえ、ここに込められた価値は、世界的な普遍性を持っています。   (つづく)