ここ半年くらい進めている「蔵書」の断捨離。今回は、読みかけていた『アメリカ 異形の制度空間』(西谷修著/講談社、2016年)と『「黒い雨」訴訟』(小山美沙著/集英社新書、2022年)を読み終えた。単行本は家で、新書は出かけたときの電車で読んでいるが、今日は両方を読めた。
『アメリカ 異形の制度空間』は、アメリカという言葉はアメリカが「発見」されてからつけられた名だそうだ。それ以来2016年に至るアメリカ合衆国をめぐる歴史、政治が書かれている。「今のアメリカでは考えられない」と疑問に思っていたモンロー主義(19世紀)の経緯もわかった。
「民主的」国家としてグローバル統治システムに参加すれば、その国は「文明世界」の仲間入りをしたと認められる。そのための援助を、米欧はその国の政府に惜しまないということだ。「民主化」と呼ばれているのは、結局そのような仕組みを広めることである。
「民主化」を進めるのはアメリカの政府だけではない。著名な投資家の団体やIT企業が、今ではそのような「民主化」のために働いており、とりわけ旧ソ連圏(ウクライナやグルジア)で活躍したと言われる。いまや選挙はマーケティングに、政治は経済に解消され、この「自由のレジーム」のなかで、戦争ばかりではなく「民主化」さえも「民営化」されている。(159頁)
かつて北米大陸では、200年かけて「インディアン」は地上からほぼ抹消することはできたが(私「間違っているやろ!」)、世界は広く連邦政府の法制度も及ばず、巨大な軍事力でも覆いつくせない。「〈アメリカ〉は誕生以来いま初めて、その夢の破綻に直面している。(190頁)
『「黒い雨」訴訟』には、広島への原爆投下によって発生した黒い雨によって生まれた被爆者が、「被爆者」と認められず、国の援護を長く受けられなかったこと、多くの被爆者が厳しい生活を強いられた戦後、70年を超える中で2021年の控訴審(広島高裁)決定を受け、ようやく被爆者健康手帳を受け取ることができた経緯が、福島事故を見据えながら書かれている。
地裁の決定を拒否し、高裁の重ねての決定に渋々と応じた国の姿勢に怒り…。とりわけ内部被ばくという現実の厳しさを、福島の「こども脱被ばく裁判」を想いながらあらためて思う。
この本を読むまで、その経緯を知らなかった自分を悲しく思う。(松原康彦)