いわゆる「69年の闘い」からおよそ50年が過ぎた。いま、時代はグローバリズムとネオリベラリズムが跋扈し、気候変動が続き、その上新型コロナウイルスが地球を覆い尽くそうとしている。コロナ禍は人間のゴーマンに対する「神」の罰なのだろうか。

 近年、立て続けに分厚い3冊の本が出た。一つは山崎博昭くんをめぐる『かつて10・8羽田闘争があった』(17年)、二つは赤軍派を中心にした『追想にあらず〜1969からのメッセージ』(19年)、三つは糟谷孝幸くんをめぐる『語り継ぐ1969〜糟谷孝幸追悼50年、その生と死』(20年)である。いずれもあの時代を生き、闘い、倒れた学生たちの手記と、生き残って市井の人となり、その後の50年をさまざまに生きてきた人たちの想いをまとめたものである。3冊とも分厚い。書き手も内容も多彩、多岐であり、書評をちょいと書くとことはとてもできないが、あの時代の空気を少しでも吸った人々は、ぜひ買って読んでもらいたい。

 以下は、あの時代の私の話である。1961年、バイトをしながらやっと入った大学で出会った論理学の先生が、講義の合間に「ポット出の学生が世の中に出て、すぐに人様の役に立つ仕事は医者か弁護士か教師くらいだ」と言った。「医者や弁護士にはとても手がとどかない。教師なら、なんとかなれそうだ」と思って教職課程を取った。卒業後は複数の私学で非常勤講師を何年も勤め、30歳過ぎてやっと正式に教員になった。この非常勤講師の時代が山崎くんや糟谷くんが活動した、あの時代と重なる。盛り上がる全共闘運動や反戦派労働運動を横目で見ながら日々の糧をかせいでいた自分も、いつしか運動の渦中にまきこまれていった。3冊の本の中に、あの人この人と知った名前があるのは、壇上で叫ぶその人たちの勇姿をみたことがあるからである。

 私の最初の赴任校は、いわゆる「荒れた学校」「教員のなり手がない」工業高校だった。3日や1週間でやめる先生もめずらしくなかった。見回すと京大、阪大、神大などの元全共闘の活動家が10人以上もいて驚いたが、「高学歴の教師ほど役に立たない」と先輩教師からいつも叱られていた。「荒れた学校」の中心には、被差別(被差別部落出身、在日韓国朝鮮人、沖縄奄美出身…)の生徒たちの、「生きさせろ」という要求が渦巻いていた。そんな生徒たちとともに、就学、学力、進路保障を目指し歩いてきた私の道は、山崎くんや糟谷くんが「生きていたらやろう」としていたことと、どこかで重なっていたのではなかったか。

 じつは1月11日、糟谷くんの記念誌出版を機に小集会が開かれる予定であったが、コロナ禍のために延期となった。集会では「69年の闘い」の思想的意味についてさまざま語られるはずであった。私は夢想するのだが、もし糟谷くんが生きていたら、貧しく虐げられた人々のために一生をかけ仕事をし、定年をむかえた今もピンと背筋を伸ばした姿で会場の片隅にそっとすわっている、と。