▼アソシエーションと市場競争

 前回、コモンを生産・管理する主体としてアソシエーションを促進することが、ミュニシパリズムの重要な柱となることを指摘した。が、市場における資本との競争にさらされる中で、アソシエーションという経営形態自身は、必ずしも競争を勝ち抜くことに適しているわけではない。

 そもそもアソシエーションを構成するメンバーの民主的な意思決定への参加は時間とコストを要し、市場競争に生き残るために必要とされる「効率化」と矛盾する面がある。他方、生き残るために事業と組織規模の拡大を図れば、構成員の参加はますます形骸化せざるを得ず、雇われ経営者とその指揮命令のもと業務を遂行する職員による運営がヘゲモニーを握るという意味で、営利企業と変わらなくなる。それでも、アソシエーションとしての理念だけは維持する必要があるから、経営資源を「構成員対策」に向けざるを得ないし、「構成員の利便性」を考えて不採算部門を維持する圧力が発生したりもする。こうして、協同組合等のアソシエーションは市場競争の下で傾向的に敗北していかざるを得ないのである。

 ミュニシパリズムは地方自治体権力を獲得し市場競争の平面に介入することで、アソシエーションの発展を促進することを可能にする。例えば、公共調達の受注先として自治体内の協同組合を優先し、社会インフラとしてのコモンに関わる営利企業の活動を制限する。協同組合等の立ち上げ運営を支援するための支援センターを設立する。補助金によって、市民の自発的活動のためのパブリックスペースを創る等々である。

▼世界を変える

 以上見てきたように、ミュニシパリズムは、権力問題へのアプローチとして、選挙を通じ議会で多数を握ることを目的とするような議会主義を採らない。他方、国家権力に全く背を向けるアナーキズムや、ブルジョア国家機構の破壊を主張するマルクス=レーニン主義も否定する。それは、ミュニシパリティ(基礎自治体、日本では市町村)という住民に近い行政単位において、政治的プラットフォームという住民自身の対抗権力を形成することを通じて、既存の行政権力の仕組みを変形し、接近し、利用するという路線を採る。それにより、街頭で集会やデモをすることだけでは決して達成しえない政治構造そのものの変革を実現し、アソシエーションの促進・エンパワメントを実現している。政治とコモンを人々の手に取り戻すことは可能であることを実践的に示しているのである。

 他方、ミュニシパリズムは国家権力へのアプローチや国境を超えて世界を変革することに関して全く無力かと言えば、そうではない。ミュニシパリズムは都市間の連帯の重要性を訴える。一国内で複数の都市におけるミュニシパリスト地方政府が成立し、連合すれば、中央政府を包囲し、国家権力の在り様に構造的変化を加えることも展望できる。さらには国境を超えた連帯により、帝国に対抗することも可能になる。本連載第1回で紹介した、ミュニシパリスト・サミット「フィアレス・シティー」の開催とミュニシパリスト諸団体の国際的ネットワーキングの試みはそうした模索の一つである。

▼終わりに

 以上、「フィアレス・シティー グローバル・ミュニシパリスト運動へのガイド」を参照しながら、ミュニシパリズム運動がめざしているものを、組織論を中心に見てきた。注意が必要なのは、ここで示されているものは誰もが遵守すべきテーゼなどではないということだ。それは日々の実践の中で発明され、試みられ、一定の条件の下で役に立つことが実証された知見であり、今後も豊富化され続けることが期待されている考え方なのだ。

 ミュニシパリストは、教条から出発し、演繹的に実践方針を導出しようとする中央集権的な態度とは無縁である。それは水平主義的で構築主義的な態度であり、指向性だと言ってよい。

 行論からお気づきのように、筆者はミュニシパリズムに社会−世界を変革するポジティブな展望を見出している。私はかつてマルクス=レーニン主義の枠組みで思考し行動していた者であるが、世紀が変わるころからその枠組みに疑問を感じ始め、以降非国家主義的変革の展望を追い求めてきた。ミュニシパリズムは、そうした私の志向性と重なるのである。そこから、ミュニシパリズムの理論と実践の動向に注目することにとどまらず、日本でも方向性を共有する実践を創り出したいという想いが抑えがたく湧いてくる。

 私はルネサンス研究所関西研究会に所属しており、本稿も本年1月の同研究会での報告が下敷きになっているのだが、何人かの友人に報告レジュメを読んでもらった。すると、複数の人から異口同音に「日本には『都市の自治』の歴史がない。」「日本語の「地域」「地方」とは中央国家の構成要素であり、「地方自治」という言葉は無内容な抽象である」といったご指摘とともに、日本では難しいのではないかとご忠告をいただいた。その通りだと思う。

 だが、「だから止めておこう」とは思わない。今は、地方で活動しているある友人が書き送ってくれた次の言葉に励まされながら、日本でも〈自治〉を生み出したいと願う多くの人と協働したいと願っている。「古いアナキストの物言いを真似ると『今、ここにあるミュニシパリズム』というものは、そんなに珍しくなく日本でも見られる、と僕は思っている。ただ、足りないのは言葉と概念である。それをやり始めている人びとは、まだ自分たちが何者なのかを知らないでいる。」

(おわり)