(1) グローバルな内戦の始まり

 二一世紀は、〇一年九・一一同時多発ゲリラによって幕を開けた。それは九〇年代を通して急速に進展した新自由主義グローバリゼーションによる矛盾が、「グローバル(地球規模)な内戦」として先進諸国の人びとの前に姿をあらわした瞬間であった。新自由主義グローバリゼーションとは、「単一市場の形成をめざす金融資本」が、あらゆる資本規制の撤廃を伴いながら、途上国であるか、先進国であるかを問わず、富の一極集中と貧困の拡大を推し進めていく、資本の新たな運動である。日本には、〇一年六月に登場した小泉政権によって、本格的な新自由主義的構造改革が始まったところであり、これとどのように対応していくのかが、左右を問わず、すべての政治勢力に問われていた。
 ところが革共同が第六回大会(〇一年)と新指導路線(〇三年)で明らかにした情勢認識は「帝国主義の基本矛盾が全面的に爆発し、帝国主義間争闘戦の激化によって、世界大恐慌とブロック化と戦争の時代がはじまった」という旧態依然たるもので、グローバリゼーションがどのように世界を変えてしまったのかをまったく無視したものであった。そこで打ち出された路線も、「連帯し侵略を内乱へ」「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」に「改憲粉砕・日帝打倒」をつけ加え、「労働組合運動の防衛・再生」を接ぎ木するというお粗末なものだった。さらに「動労千葉労働運動への特化」と「四大産別決戦(国鉄、全逓、自治労、教労)」を掲げた新指導路線によって、ますます人びとの置かれている現状からかけはなれていったのである。にもかかわらず「世界革命—日本革命への道を開くものは、革共同以外にありえないことを全党的一致としてかちとる」と言っていたのだ。そのような組織が、上部から腐敗するのも必然であった。

(2) 〇六年以降の歩み

 〇六年三・一四決起—〇七年分裂以降、私たちが直視しなければならなかったのは、新自由主義とは何か、グローバリゼーションとは何か、そしてこれに対抗する運動と組織とは一体どのようなものなのかについて、私たちが何も知らないというきびしい現実であった。私たちは、実際の運動から一から学んでいくほかなかった。その主なものを時系列に沿ってあげてみる。
 ・〇六年、安倍政権の改憲策動に対する「九条改憲阻止」の統一戦線と共同闘争の開始。
 ・〇七年九月の文科省の教科書検定意見撤回を求める沖縄県民大会〜「オール沖縄」の闘いの
  始まり
 ・〇八年洞爺湖サミット反対闘争における国際的な反グローバリズム共同闘争の経験、〇八年
  リーマンショックと年越し派遣村、〇九年政権交代—民主党政権の登場。
 ・〇九年、日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワークが活動を開始
 ・一一年三・一一東日本大震災—福島原発事故とその後の再稼働阻止闘争の全国的な拡大。
 ・一一年、アラブの春、スペイン、ニューヨークの占拠闘争
 ・一三年特定秘密保護法反対闘争〜一五年戦争法反対闘争の高揚と若い世代の運動の登場
 ・一四年、香港・雨傘運動、台湾・ひまわり学生運動、一六年、韓国ろうそく革命〜一七年、
  韓国派遣、一九年、香港・「反中送」民衆デモ
 ・九二年以来の日本軍「慰安婦」問題の解決を求める運動、一四年〜ブラック・ライブズ・マ
  ター運動、一七年〜#MeToo運動
 ・関西地区生コン支部に対する大弾圧との闘い

(3) レーニン主義革命論からの決別
 こうした一連の運動の特徴は、その「多様性」と「水平性」である。「保守・革新」、「右・左」という従来の枠組みでは収まりきれない新たな政治の前面化である。運動を主導したのは、政党や労働組合などの既成団体ではない。上からの指令や指導による組織的動員ではなく、諸個人の自発的な運動への参加がその原動力だった。「リーダーなき民衆運動」の登場である。
 民衆運動の多様性や水平性は、一九六〇年代にはすでに現われていた。それまで社会運動の中心的存在だった労働運動に対して、人種差別(民族差別)撤廃、公民権運動、反開発・反公害、フェミニズム、障がい者運動などは「新しい社会運動」と呼ばれた。
それは資本主義の、フォーディズム(大量生産・大量消費・賃金上昇)から、情報社会(多品種・少量生産・情報サービス)への移行に対応する民衆運動の理論・組織・運動の新展開であった。その象徴的な出来事が、「一九六八年の革命」といわれる先進諸国における「若者の反乱」であり、新左翼運動の台頭だった。
 革共同やブントが主導した日本の新左翼運動が、その重要な一角を占めていたのは事実である。問題は「単一の革命党によって指導された労働者階級を主体とする、帝国主義国家権力打倒の一斉武装蜂起」にすべての運動を集約するレーニン主義革命論にあった。革共同は「一九六八年の革命」のダイナミズムのなかで先進的な役割を果たし、党勢を拡大することに成功したが、それが何であるのかを理解することはなかった。七〇年代以降は、「均質で単一の中央集権的な党」の下に民衆運動の系列化をめざして、その「多様性」と「水平性」を否定していった。そして革共同以外の「党の存在」を認めない独善的傾向を深めていくことになった。それは八〇年代まで続いた、革マル派との凄絶な党派間戦争を合理化するものであった。党派間戦争が激化すればするほど、七〇年闘争に期待を寄せた民衆は離れてゆき、新左翼運動は孤立を深めていったのである。
 新左翼運動の衰退は、自らが招いたものだった。それは組織や運動における後退だけではない。革共同においては、思想的な停滞と後退は深刻なものであった。とくに人種主義、植民地主義、性差別にたいする無知と無理解に顕著だった。私たちは〇六年以降、それを一から学び直していったのである。

(4) 分裂から新組織結成へ

 二〇一九年一二月三〇日に発生した同盟員による性暴力事件は、被害者が精神病で闘病中の女性であったこと、しかも彼女が一時避難していた同盟の事務所内で襲撃がおこなわれたこと、さらに加害者が「酒に酔って記憶にない」という態度を続けていることなど、極めて悪質で深刻なものであった。この事件は〇六年三・一四決起から一五年間にわたる私たちの歩みのすべてを否定した。私たちは半年以上にわたる組織内の討論を経て、二〇年七月二六日、革共同関西地方委員会臨時総会を開催し、事件の公表、加害者の処分、議長および地方委員全員の辞任を決議した。そして一から再出発することにしたのである。
 ところが臨時総会から四カ月後の一一月二九日、一部の同盟員らが「革共同再建協議会総会」を開き、そこで臨時総会決議を「党破壊」と決めつけて否定する「決議」をおこなった。ここに至って、組織の分裂は決定的となった。
 「〇六年三・一四決起」は何を要請していたのか。私たちは今、はっきりと言うことができる。それは、レーニン主義革命論からの決別であったと。それが、〇七年分裂以降、私たちの組織内の最大の争点だったのであり、今回の性暴力事件でそのことが前面化したのだ。理論、組織、運動において革共同は全面的に破産したのだ。それでも革共同にしがみついていたいという人たちに、もはや言うべきことはない。
 私たちはこの長い論争にようやく一つの決着をつけるときが来た。その実践的な結論が、革共同関西地方委員会の解散であり、新組織「未来への協働」の結成である。「未来への協働」は直接民主主義を原理とする組織である。私たちの未来は決定されたものではない。しかし、私たちは次のことに確信を抱いている。
 「連帯と正義」に基づいた人びとの日々の営みと闘争は、「競争と貪欲」の資本主義社会に代わるにアソシエーション(共同社会)を紡ぎ出していくであろう。