男性中心社会で育ってきた男性は、時として破廉恥なまでに女性問題に鈍感なままであることがある。前回紹介した95年世界女性会議で、日本政府代表4人のうち、女性がたった1人という代表団を組んだ。そして代表演説は男性がした。「女性会議でなぜ男が代表演説をするのか」と他国の参加者から呆れられた。
 なぜここまで鈍感なのか。『男性学入門』の著者、伊藤公雄さんは男女平等をめぐる男性の勘違いが影響しているという。勘違いの一つに社会的・文化的な性別(ジェンダー)を生物学的性差の延長で考える発想があるという。
 
「母性本能」は幻想
 
 「女性には母性本能がある」「女は子宮で考える」。
 様々なデータが「母性本能」が幻想にすぎないことを裏付けている。動物園の雌ザルにしても、母親の役目を知る経験がなかった親は子どもの世話の仕方を知らないし、やらない。母性にしても父性にしても子育ての実践の中で育まれていくのだろう。
 また一方、男性の都合のよい勝手な思い込みが女性の社会的な活躍の阻害要因となっている。男女平等を機械的に男女「同じ」にすればいいと考える傾向がある。女性を「男性並み」に扱えば「男女平等だろう」という発想である。真の男女平等を達成するには「女性が産む性である」ということに十分に注意を払う必要がある。矛盾するようだがそうではない。「産む性としての保護」は女性の社会参加を保障するのである。
 
「男性原理」
 
 これまでの性別分業社会では「産む性」であることを無視した「男性原理」による差別や排除が野放しだった。著者は、読者がわかりやすいように公衆トイレを例にして説明する。「男性原理」にしたがってトイレの面積が機械的に男女同じに作られていることが多い。しかしこれは実質的に男女平等に反する。女性のトイレには長い行列ができ、男性トイレの行列はほとんど見ない。女性トイレの面積を男性の3倍くらいに設計してはじめて男女平等になる。
 私の子どもの頃は旅館に泊まってもトイレと風呂は女性用は小さく設計されていた。男性風呂は屋上の広い展望風呂で、女性風呂は狭い地下の窓なしということもあった。逆だろう! 洗髪一つとっても女性の方が時間もかかるし、子どもの世話もある。私は子ども心に「設計技師は男だな」と悔しい想いをした。
 「男性学」入門の最後がトイレの話になってしまったが、男性こそが女性の解放に心を寄せてくれることを願いペンを置きたい。
   (おわり)