
11月22日 沖縄・読谷村の知花盛康(もりやす)さんが亡くなられました。享年79歳。盛康さんは4、5年前に体調を崩し、その後ガンを発症。入退院を繰り返しましたが、自らの希望で、読谷村宇座の自宅に戻り、おつれあいの艶子さん、4人のお子さんや孫、ひ孫に囲まれて穏やかに逝かれたそうです。朴訥(ぼくとつ)という言葉がぴったりの、柔和で、語り口も穏やかでな人でした。同時に政治や社会の不条理への怒りは強く、どんな弾圧を受けても「反戦・平和の信念は貫き通す」(1988年本人の裁判意見陳述書から)人でした。心から御冥福をお祈り申し上げます。
日の丸焼き捨て事件
盛康さんは1947年読谷村に生まれました。幼いころから両親や周りの人たちから戦争中の話を聞いて育ったそうです。若いときに村を離れて県内外で働いていましたが、祖母が亡くなったことを契機に村に戻りました。読谷村で生き、村を発展させるためには、基地・戦争のない平和が何よりも大切と、知花昌一さんらとともに「平和のための読谷村実行委員会」を立ち上げました。
そして、あの1987年10月26日。沖縄国体ソフトボール会場となった読谷村平和の森球場での昌一さんが「日の丸」を焼き捨てた日、盛康さんはその現場にはいなかったのに「昌一の逃亡を助けた公務執行妨害」という全くのでっち上げで逮捕・拘留・起訴されました。盛康さんは6年かけて完全無罪判決を勝ち取ります。
事件の直後から読谷村には右翼がおしかけ、大騒ぎになりました。夫が拘留されている中で、艶子さんは4人の子どもを抱え、生活に追われながらも「夫は正しいことをしているんだ」と踏ん張りぬきました。その後、2人の知花さんは(時には艶子さんも一緒に)全国を駆け巡り、沖縄にとっての「日の丸・君が代・天皇とは何か」について語り、訴え、たたかいを呼びかけました。艶子さんには関西でも女性たちの企画で何回も来ていただいています。当時のことについては、私が3年前、読谷をお訪ねして書いたインタビューを読んでいただければうれしいです。
女たちの「『日の丸』焼き捨て事件」①
女たちの「『日の丸』焼き捨て事件」②
女たちの「『日の丸』焼き捨て事件」③
盛康さんの故郷にも「ガマの悲劇」
盛康さんが生まれたのは読谷村の街中でしたが、両親はもともと読谷村の西海岸の宇座に住んでいました。周知のように読谷村は1945年米軍の上陸地点となりましたが、宇座一帯もそのまま基地にされ、住民は追い出されました。「復帰」後の基地返還に伴ってようやく少しずつ戻れるようになったそうです。
盛康さんが那覇地裁での意見陳述(1988年1月26日)で語っていることがあります。
「(宇座には)チビチリガマと同じように、ヤーガーという自然壕があります。当時は大きなデイゴの木に囲まれていて、部落の人々が『どんな爆撃にもたえられる』と信じ、婦女子や老人を中心に避難していました。激しい米軍の攻撃で、一発の爆弾がヤーガー上におちて一瞬のうちに地獄と化し、24名の犠牲者を出したのです。大勢の人が死に、また大きな岩に下半身が挟まれ助け出せなかった老人、童謡を歌いながら4日目に死んでいった14歳の少年もいたそうです。こういった類の話をいつも聞かされてきました。」
盛康さん夫妻は、宇座に2014年に居を移し、農業を生業としながら修学旅行の子どもたちを受け入れる教育民泊を始めました。盛康さんが戦跡を案内し、今の沖縄の問題を子どもたちと語り合い、艶子さんは沖縄料理を一緒に作りながら子どもたちと気持ちをつなげてきたそうです。
今、「日の丸焼き捨て」事件を受け継ぐ
70年代から80年代にかけて、文部省(当時)は公立学校への「日の丸掲揚・君が代斉唱」の「指導」を強めました。各地で実施率が上昇する中、沖縄では学校現場での「日の丸掲揚」がゼロでした(85年文部省調査)。ちなみに九州各県は100%! 90年の学習指導要領では、小6社会科に「天皇についての理解と敬愛の念を深める」ことが明記され、「日の丸・君が代・天皇」の三点セットが日本の「教育」にはめ込まれます。
昭和天皇は戦後、精力的に全国を回り再び天皇制のもとに国民をからめとることに務めましたが、唯一足を踏み入れられなかったのが沖縄でした(その意味はここで書くまでもありません)。1987年の沖縄国体は、「まつろわぬ民」沖縄に、「日の丸・君が代、天皇」を踏み絵として踏ませ、屈服させようという、きわめて政治的「国体」でした(国体そのものが政治的なのですが)。 沖縄では「天皇来沖反対」「日の丸・君が代強制反対」の声が高まり、戦争を知る世代から中・高校生までたちあがりました。昌一さん・盛康さんたちの行動はそのうねりの中で生まれたのです。
今年10月、参政党が「日本国国章損壊罪」を盛り込んだ刑法改正案を参院に提出しました。「国旗・国歌」を損壊した場合、刑事罰を科すというものです。自・維の連立政権合意書でも同様の罪を来年の通常国会で制定することを目指すとしています。高市首相は2012年に似たような法案を提案したこともあります(廃案になった)。最近の日本の政治状況を見れば参政党のパフォーマンスと軽く見ることはできません。
私たち一人一人が、「まつろわぬ民」として生きる覚悟を問われています。「盛康さん、安らかに眠ってください」という送る言葉にその決意を重ねます。(山野 薫)
