デモに参加したときの知花艶子さん(中央の女性)=1987年10月24日、那覇市/筆者撮影

知花艶子さん「いろいろあったけれど がんばったね」

私たち(同行4人)は、艶子さんからのお誘いを受けて、残波海岸に近い自宅にお邪魔した。たくさんの沖縄料理が用意されていて、夫の盛康さんや同居の娘さんも交えて、話に花が咲いた。

「事件」当時のこと

あの日は私(艶子さん)は地区の公民館で働いていた。「ソフトボール会場で日の丸が焼かれ、一人は逮捕、もう一人は逃げた」とラジオで聞いたけれど、お父さん(盛康さん)は畑に行っているし別の人だと思っていた。でも、夜になっても帰ってこないのでもう大変。それから村中で大騒ぎになり、「警察沙汰になることをするなんて」と非難する人もいて、「お父さんも昌一さんも悪いことしてないよ」と言い返しながらも辛い思いもあった。でも、知り合いのおばあが来てくれて「イキガヤ ウヌアタイ イジアリワルヤル(男はそのくらいの意地があるべきだ)!」と言って励ましてくれた。「あなたたちは歴史を変えてるんだよ」と励ましてくれる友人もいてうれしかった。

地元、全国の支援の人々との出会い

(盛康さんが拘留されている間)畑が心配だったけれど、大勢の人が援農に来てくれてありがたかった。でも、みんな農業は不慣れで、あまりはかどらなかった(笑)。公判の時には全国からも来てくれて、うち(前の住まい)にもよく泊まっていった。私は仕事に行かなくてはならないし、子どもらは知らない男の人たちが家の中にいて、居心地悪かったかもね…。
各地の集会に夫婦で呼ばれて行くようになり、私の話にみなさんがすごく拍手してくれて驚いた。私はただ自分の経験をそのまま話しただけだったんだけど。各地の女性の集まりにも、三里塚や北富士の集会にも行った。若い時、『暮しの手帖』で北富士・忍草母の会のことを読んだことがあり、あのお母さんたちに会えて感動した。
東京の集会の帰り、羽田空港で硬貨がいっぱい入ったままの会場カンパの袋が検査場で引っかかり、飛行機に乗り遅れたこともあった。そんな思いをして裁判支援の事務局に持って行ったら「袋の表に書いてある金額と違う」と言われて、「私は中は触ってないよ」と憤慨した…。(まるで昨日のことのように、いきいきと語ってくれる艶子さん)

子どもたちが見ている

当時、子どもは12歳から4歳までの4人。経済的にも苦しかったけれど、子どもたちを守らなければと必死だった。裁判には子どもも連れて行った。次女が、小学校の作文に「お父さんはけいさつにつかまった、悪いことはしてないのに」と書いたと先生から聞いて、親の知らないところで父親のことを考えていてくれている、子どもたちが私たちを見てる、がんばろうと思った。子どもたちはみな成長し、結婚した相手にも父親のことをちゃんと話しているよ。
昌一さんのお母さんのウメノさんは「昌一のとばっちり受けてごめんね」って、いつも気にかけてくれて、「4人の子をちゃんと育ててくれてありがとう」とも言ってくれた。昌一さんところもうちも、いろんなことがあったけど、ほんとにみんながんばってきたね。

教育民泊

2014年から「教育民泊・修学旅行生受け入れ」を始め、コロナ禍で中断するまで1600人を越える生徒たちが利用してくれた。お父さんが座喜味城に上って沖縄戦や米軍基地の話をして、生徒たちが耳を傾けてくれた。私は料理を教えたりした。その子どもたちが数年後に訪ねて来てくれたこともあって、それがとてもうれしい。お父さんが昨年から体調を崩したこともあって再開は無理かな…

読谷村には19区の地区があってそれぞれに「方言」があること、沖縄の「長子(男)相続」の習わしについてなど、話はいつまでも尽きなかった。
夜も更けて来たころ、艶子さんが「さあ、ご飯にしよう」という。えっ今までのたくさんの料理は? と驚くとそれは前菜みたいなものだとか。出されたのは2日間煮込んだというホロホロととろけるように柔らかいソーキが入った大根汁と混ぜご飯だった。
艶子さんの料理は優しい味だった。子どもたちのことを話す時は、少し涙声になる。山のような苦労を乗り越えてきた力は「悪いことは何もしていない」という確信と家族への愛情なのだろう。艶子さんは明るく、たくましい。次回の知花洋子さんもそうだった。
(山野 薫)