
あのとき読谷村で
沖縄「本土復帰50年」の中でも「歴史的大事件」として複数のメディアも扱った1987年10月沖縄国体・読谷村ソフトボール会場での「日の丸」焼き捨て事件。このできごとは、「日の丸は国旗か」問題を含めて、沖縄と日本、沖縄と天皇の戦争責任、「まつろわぬ民」沖縄の民意などを人びとに問いかけ、政治的社会的な大問題となった。私の初の沖縄行きはこのときだった。
どこまでも続く米軍基地、チビチリガマやいくつもの沖縄戦の傷跡、「天皇の訪沖に反対する」集会での人びとの発言、なにもかもが「百聞は一見に如かず」の衝撃の時間だった。
4日目の10月26日朝、私は数人の仲間と読谷村に向かった。前々日、那覇市で開かれた集会での、「『日の丸』の強制は絶対に許さない。一歩の後退は戦争への道につながる」という知花昌一さんの熱い訴えに心を揺さぶられたからだ。そこで何がおきるかなど想像もしていなかったのだが、目の前で知花さんが「日の丸」を引きずり下ろし、焼き捨てるのを目撃し、その後の現場の「大混乱」のただ中にいることになってしまった。
もう一人の「被告」
周知のように知花さんは起訴され、長い裁判闘争があったが、「日の丸」裁判にはもうひとりの「知花さん」がいたことを読者は記憶されているだろう。同じ読谷村の農民で昌一さんの仲間であった知花盛康(もりやす)さんだ。
盛康さんはこの日、朝の農作業の後に会場に到着、「日の丸」強制に反対する横断幕を張って仕事に戻ろうとしたとき、突然警官に囲まれ「昌一の逃亡を助けた公務執行妨害現行犯」というでっち上げで逮捕、拘留、起訴され、93年まで6年の裁判闘争をたたかうことになった(完全無罪を勝ちとる)。
35年の思いを聞いた
その後、私は両知花さんの公判に年に何回か行くようになり、知花艶子さん(盛康さんの妻)、知花洋子さん(昌一さんの妻)とも顔見知りになった。昌一さんの裁判は95年の2審で終了したが、訪沖の機会には会うこともあり、細く、長いおつきあいをさせていただいていた。あの渦中で、そして今、何を思っておられるのかと、今年6月、4年ぶりに読谷村を訪ね、たくさんの話を聞かせていただいた。次回からその一部を伝えたいと思う。 (山野薫)
(追記)この「事件」の真実は、知花昌一著『焼き捨てられた日の丸』、『燃える沖縄、揺らぐ安保』(社会評論社)に。昔読んだ方にも再読をお薦めする。