
沖縄の旅の2日目、午前中は富樫守さん(本紙「トガシさんの『沖縄便り』の筆者)に読谷村を案内していただき、今夜の宿、波平にある知花昌一さんと洋子さんが1999年から開いている民宿「何我舎」に到着。経営は長男の昌太朗さんに譲っているが、洋子さんは宿泊室の掃除や洗濯、長女の未来世さんのデイサービスへの送迎などとても忙しい。夕方は昌太朗夫妻と子どもたち3人も来て賑やかなバーベキュー。一段落して昌太朗さんも一緒にお話を聞いた。
知花洋子さん
あきらめない、静かな怒り
女の強さというのかな
「事件」当日の早朝、昌一は「じゃ」とだけ言って(経営するハンザ・スーパーの)仕事に出て行った。(当時、洋子さんは出産間際。前の晩、昌一さんは自分の思いをじっくり伝えたそうだ。翌日に長男昌太朗さんが生まれた)。おじい(昌一さんの父昌助さん)は何も知らずにソフトボール会場に行ったのだけど、その場で一部始終を見て、ショックを受けてしまったんだね。老人会会長も辞めて家に閉じこもってしまった。でも、長女の未来世の面倒をよく見てくれた。子守することが救いだったのかもしれないね。
その後、右翼が村に毎日押しかけて、店にもうちにも押しかけてきた。おじいは少し気弱になっていたけれど、おばあ(昌一さんの母ウメノさん)が「店を閉めるんじゃないよ」と一番しっかりしていた。うちに右翼が来たときも、おばあが出て追い返した。女の強さかねえ。たくさんの人が「防衛隊」として店に泊まり込んでくれたし、いつも買い物に来られるおばあ達が変わらずに買いに来てくれた。
人間って出会いだね
お父さん(昌一さん)たち団塊の世代の青春は輝いていた。あの時代に生まれた人たちは幸いだね(洋子さんは6歳年下)。この人と会わなかったら政治に関心を持たなかったかもしれない。私は波平の隣の部落の育ち。(昌一さんとの)出会いは、知り合いのおばさんの紹介だった。その人は「事件」のあと「ごめんね」って言ってきた。昌一は商売でがんばっている人だと思っていた。最初に会った時、「ぼくは刑務所に入ったことがある」と言われて、こんな田舎にもそんな人がいるのって。飾らない、自然体のところが好感を持てて出会って3カ月で結婚した。人間って出会いだね。彼との出会いはグッドタイミングだったな。
彼はもともと「宗教はアヘンだ」と言っていた人だけど、私は宗教は大事と思っていた。2011年に「京都の東本願寺に1年間勉強に行く」と言い出したときは、ウメノおばあは、未来世と下に男の子2人もいるのにと反対したけど、私は、むしろいいことだと思って賛成した。
盛康さんと昌一は同志
知花盛康さんが、ずっと後になって「思わぬところでつかまって、どうせなら自分がやればよかったな」と言って、昌一が「お前でもよかったな」なんて笑い話になったけれど、艶子さんはほんとうに大変だったと思う。2人の裁判は、弁護団も支援もいつもみんなで一緒にやって、共に勝ちとって来たからよかった。だから盛康さんと昌一はほんとの同志だね。兄弟よりも濃いっていうか…。今もよく訪ねてるみたい。こんなふうにあの頃の話するとうれしい。苦しい出来事だったけれど、気持ちは、なんでだろう、不思議だね。あそこ(当時)に飛ぶと幸せ…。
聞いてしまったことを
子どもたちには(親たちの経験や思いは)無理強いはしない。本人が自分で聞こうと思った時に聞いてくるようになるものだから。
お父さんは、チビチリガマの調査で「生き残った人」から話を聞いてしまった。それをウメノおばあに話したとき、話しながら泣けてしまったと言っていた。それぐらい大事な話を聞いてしまった、感じ取ってしまったんだね。それがあの行動とその後の生き方の原点。語り継ぐ役割があるということ。今は昌太朗がガマの案内を始めている。今なら大人同士で話せるようになった。親子で話ができるっていいよね。
ヤマトの人にないもの
日本は、私たち沖縄が「復帰」するところだっただろうか。戻り方も別な形があったはず。沖縄はいつも泣かされてる。ウクライナと同じだね。大きな国が小さな国を侵略して…。何で「復帰」なんて言ったんだろう。あんなすてきな憲法の下で一緒になるんだと夢を託したのだろうね。でも、沖縄には誇りと反骨精神が続いてきているわけ。ここがヤマトの人にはないと思う。
山内徳信さん(当時の読谷村長、のち衆院議員)の回顧録には「日の丸」事件のことは一行も書いてない。私から言えば、読谷に「日の丸」を焼いた人がいたことは子どもたちに誇るべきことなのに。「あったことをなかったことにされる」のが一番悔しいよね。
「50年」っていうけれど(日本は)沖縄が何を言っても聞いてくれない。でもあきらめない。勝てなくてもやる意味がある。悲しい、静かな怒りかな。
昌太朗さんはまもなく35歳。昌一さんに変わってチビチリガマのガイドを引き受けるようになったが、「実際に生き残った人たちから話を聞いている親父のようにはできないし、また同じようにするつもりもない。自分は自分らしく若い感性でメッセージを伝えられればと思っている」と話す。洋子さんは「これは母として思い描いていたこと」だととてもうれしそうだ。読谷の人びとの歴史、親たちのぶれない生き方が、次の世代を確実に育てているのだと思う。
翌日は名護へ。6時半には洋子さんが卵のたっぷり入ったサンドイッチを作って下さっていた。それをいただいて緑に囲まれた何我舎を出発した。 (山野 薫)