6月17日に米・イラン間で戦争終結に向けた了解覚書(MOU)が結ばれた。世界が安堵の息をついたのも束の間、10日も経たずに米軍が空爆を再開し、イランがこれに報復。ホルムズ海峡をイランが封鎖し、米軍がイランの港湾を逆封鎖したままにらみ合う状態が現在も続いている。
1ヶ月先の見通しを立てることも難しい流動的状況だが、情勢を規定する要因をここでは2つほど指摘しておきたい。
(1)米国の戦略石油備蓄の枯渇
1つは米国の石油備蓄が底を尽きつつある点だ。
戦闘が始まって間もない3月11日、国際エネルギー機関(IEA)は原油価格の高騰に対処するため4億バレルの備蓄を協調放出すると決定、トランプは米国の分担として7月末までに1億7200万バレルの備蓄を放出するよう指示した。米国は原油輸出国であるが現状の設備で急激な増産ができるわけではなく、中東産原油の穴を埋めるためにこの備蓄放出分が輸出に回されている。
戦争前は1バレル70ドル程度だった原油価格(WTI先物)は3−4月にはパニック買いで100ドル越えの高騰を示したが、その後はかなり落ち着き、7月には70ドル程度まで下落していた。戦時にも関わらず石油市場が比較的に安定しているのは、様々な要因があるとはいえ、この世界的な備蓄放出によるところが大きい。
しかしこんな状況がいつまでも続くわけではない。もともと米国の政府備蓄は満タンで7億バレルと言われるが、バイデン政権がウクライナ危機に対応して史上最大規模の1億8千万バレルを22年に放出したり、一時的な財源確保のため備蓄原油の売却を繰り返したこと等が原因で、トランプが大統領2期目に就任した25年1月時点の備蓄は歴史的低水準と言われる3億9440万バレルしか残っていなかった。25年4月にいくらか補充して約4億1千万バレルまで戻したものの、ここから1億7200万バレルを放出すれば7月末の備蓄残量は2億4300万バレルになっているはずだった。実はこれは戦略石油備蓄の最下限2億5千万バレルより少なく、事実上、備蓄タンクが空になることを意味する。設備の技術的・工学的な限界、ハリケーンなどの大規模災害や緊急事態への安全余裕度を考慮して、米国では石油備蓄量の下限値が決められており、タンク内の残量がこれを下回れば米政府は放出を停止して再び備蓄を増やさなくてはならない。トランプの大判振舞いは備蓄を使い切るプランだったわけだが、そもそも5月までに戦争の片がつくということが彼の前提で、まさか7月を過ぎてもホルムズ海峡が封鎖され、備蓄が本当に底を尽くなどとは思っていなかったのである。
米国の原油備蓄が枯渇すれば需給バランスが大きく崩れて石油価格は上昇する。複数の石油会社幹部が「7月末に石油価格が高騰する」と警告を発していたのもこうした事情が背景にある。本来、危機に備えるための備蓄が枯渇すること自体、一大事件である。こうした状況に鑑みて、米国は6月以降備蓄放出を減らし始めた。5月に過去最高の日量566万バレルを記録した米国の原油輸出は、6月466万バレルで18%減、7月になると370万バレル、5月比35%減となった(8月6日、日経)。ここまで絞っても米国エネルギー省(EIA)が発表する備蓄残量は8月7日時点で2億9870万バレル。あと1ヶ月もすればレッドラインを超えてしまう。「米国民がガソリン価格高騰で苦しんでいるのに、なぜ石油を海外へ送る必要があるのか」というわけで、備蓄放出と原油の輸出を制限せよという米国内世論が高まっている(7月8日、プレジデント・オンライン)。
トランプはMOUに署名する際、「あと4週間で石油がなくなる」から他に選択肢がないという趣旨の発言をしていた。副大統領ヴァンスはTVインタビューで「大統領から我々に指示されたのは、この覚書(MOU)を活用して世界の石油経済や在庫をある程度補充し、その上で今後の情勢を見極めるということ」だとその狙いをあけすけに語っていた。「米国の降伏文書」とも言われたMOUの各条項―全戦線における停戦、海峡の安全確保をイランに任せる、戦争被害の保障として米国が3000億ドルを手配、イランへの経済制裁を解除する等―は、トランプが時間稼ぎするための空証文にすぎなかった。早々と軍事衝突を再開したトランプは、結果的に時間稼ぎすらできなかったのではあるが…。
米国が備蓄放出を止めれば、もっとも打撃を受けるのは日本だ。中東からの代替輸入の大半を米国に頼る日本は、5月に米国から日量96万バレルを輸入していたが、6月には77万バレルと20%減少している(日経8月6日付)。7月分はもっと減っているはずだ。日本の原油消費量が日量で約300万バレルだから、年内にはその3分の1がショートする。「年を越えて石油の供給を確保できるめどがついた」(4月7日)とか「2028年3月まで石油の安定供給が可能」(6月11日)といった高市首相の見通しはすでに過去の話。早々に日本も備蓄取り崩しを再開することになるだろう。
米国が備蓄放出を絞ったことで原油価格は再び上がり始めた。1バレル70ドルだった原油はこれを書いている8月18日時点で84.5ドル。米国の備蓄が底をついたと正式に報道されれば、ここから一気に高騰するだろう。原油不足と価格高騰がもたらす政治的経済的影響は計り知れない。イランは石油市場を締め上げて米国が屈服するのを待っている。
(2)米軍はすでに弾切れ
2つめは、米軍のミサイル備蓄が枯渇したという問題である。
7月末、米軍はイスラエルと共同でイランの発電所や製油所などインフラ設備とミサイル基地を標的とする大規模な軍事攻撃を準備していた。「イランはもう耐えられないと言うだろう」とトランプがうそぶく一方、イランは、もしインフラ設備が攻撃されれば米軍をサポートする湾岸諸国の発電所と淡水化プラントを大規模に破壊するとして、詳細な攻撃目標リストを発表。地域の緊張が高まるなか、8月1日に突然トランプは作戦中止を命じ、その後大規模な軍事衝突は鳴りをひそめている。
サウジアラビアなど湾岸諸国が作戦中止を懇請したことも大きいが、米中央軍司令官ブラッド・クーパーが「指定された攻撃目標はすでに攻撃済み」でさらなる空爆の効果はないとトランプに説明したこと、統合参謀本部議長ダン・ケインが防空ミサイルの不足を指摘し、イランのミサイル攻撃を防げないと進言したことが作戦中止の直接的な理由だったという(7月26日アクシオス)。
米軍は防空迎撃用ミサイルのパトリオットを65%、THAADミサイルの38%を使ってしまった。 陸軍戦術ミサイルシステム(ATCMS―エイタクムス)や精密打撃ミサイル(PrSM―プリズム)といった長距離精密誘導ミサイルは「ほぼすべて」使い切り、巡航ミサイル・トマホークは世界全体の備蓄の半分弱を消費したという(8月4日ロイター)。これ以上攻撃を続けようとすれば、公式発表でも米軍無人機を45機撃墜したイラン防空網に、撃墜される危険を犯して有人機で突入するしかない。多大な犠牲を覚悟して有人機で攻撃するか地上戦力を送り込むのでない限り、米軍は文字通り「弾切れ」で打つ手がなくなったのである。
驚くべきは、作戦中止を決断する直前までトランプがこうした数値を知らなかったことだ。軍幹部の説明に激怒したトランプが、ミサイル備蓄の不足を把握していなかった国防長官ヘグセスを怒鳴りつけたとか(8月6日ワシントン・ポスト)、「イランを制裁する創造的で型破りな方法」を米軍が メールで募集しているとか(8月3日CNN)、トランプ政権のお粗末な内情が政権中枢からリークされている。末期的というしかない。
トランプに残された方策は限られている。米軍の敗北を認めて湾岸地域から撤退するのか、イランへの経済制裁を中国にまで広げるのか、軍事的劣勢を挽回すべく核兵器の使用に踏み切るのか―いずれにしてもわれわれはさらなる危機の連鎖を覚悟しなくてはならないだろう。(掛川 徹)
