
「『天皇陛下が処刑されるかもしれない。』という噂が村内に流れている」と、日記冒頭(1945年9月2日)の1行に打たれた。「新しい戦前」の、今の立ち位置から「終戦直後」の歴史のページに戻ってみることは、私たち「忘却の民」にとって大きな衝撃かもしれない。
「生きて再び、敷居をまたぐことはあるまいと思っていた親元の家に帰ってきた」渡辺清は、ミッドウェー、ソロモン、ブーゲンビル、マリアナ、とりわけ惨烈を極めたレイテ沖海戦の果てに、乗艦していた戦艦「武蔵」が撃沈され、暗夜の海を仮死状態で漂流していたところを、味方の駆逐艦に救助された。「あの時、死ななければいけなかった。そうすれば、こんなふうに死にはぐれた後ろめたさに心を嚙まれることなく、屈辱的な降伏も知らずに済んだ」「天皇陛下の『赤子』(せきし)として、一死をもって『皇恩』に報い…引き絞るように、その一点に己の全てを賭けていた」 そこから渡辺清の戦後が始まる。
東條英機の、なんたる醜態
東条英機の自殺未遂(1945年9月13日)の報に接し、「なんという醜態。開戦当時の首相、陸軍大臣だった当時、自ら『戦時訓』を公布し、『生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ』と、軍人の最高位を極めたる陸軍大将が、商売道具のピストルを射ちそこなって、敵の縄目にかかる。これではもう喜劇にもなるまい」「戦犯に指名される前に、潔く自決して欲しかった」と…。
「俺は、戦場で人間の頭が砕かれ、胸が裂け、手や足が木っ葉のように海に吹っ飛ぶのを見た…そういう人間の無残な最期を、今もうなされるほどこの眼で見届けてきた」「そこで思い知らされたのは、何か例えようもない人間の非常さと空しさ、身を切りきざむような無常感だった」という。
天皇に「恥」はないのか
そして、天皇のマッカーサー訪問(1945年9月30日)の報に接し、「俺たちが、ついせんだってまで命を的に戦っていた敵の総司令官である。その男に、こっちからわざわざ頭をさげにいくなんて、天皇には恥というものがないのか」「いや、負けたからこそ、なおさら毅然としていなくてはならないのではないのか」「こんな屈辱はない。人前で皮膚をめくられたように恥ずかしい」「自分が、このような天皇を元首にしている日本人の一人であることが、いたたまれぬほど恥ずかしい」と、どん底につき落とされる。
「俺にとっての”天皇陛下”は、この日に死んだ」と宣言する。渡辺は、「できることなら、天皇をかつての海戦の場所に引っ張っていって、海底に引きずり降ろして、そこに横たわっているはずの戦友の無残な死骸を、その眼に見せてやりたい。これがアナタの命令ではじめた戦争の結末です」…、その怒りは底知らずである。
「落とし前はつける」
続きはぜひ、この本を手にして欲しいが、渡辺は「東京都宮内省侍従官室 御中」としるして、天皇から授かった俸給、食費、被服、「御下賜品」一切合切、金員にして4、282円(当時)を天皇に返し、「私は、これでアナタには、もうなんの借りもありません」と落とし前をつけるのであった。
この最後の結末に至るまでに、軍国少年からの脱却・転換に至る苦しい思想的苦闘があった。かかる頑固一徹の故人の戦後総括に触れて、気持ちは複雑に沈潜してしまった。
渡辺は、のちに日本戦没学生記念会(わだつみの会)の事務局長を務めたとある。(啓)
