
なんとも意気が上がらない、今の辺野古の報告です。
意気が上がらないのは、コロナのため制約をかけられたことです。参加者が少なくなりましたが、それでも「1秒でも工事を遅らせよう」「そのうちに状況が変わる」と信じて、闘っています。状況の変化のうち、速効性のあるのは国政選挙ですが、その可能性はまだまだでしょうね。
増える闘いの現場
辺野古では、美謝川切り替え工事作業ゲート前も加わっています。従来の海上行動、安和、塩川に加え、県の埋め立て不承認による国との裁判、海上行動のメンバーに海保が大怪我をさせたことに対する裁判、辺野古・大浦湾沿岸住民による国交省裁決の不当を訴える裁判があります。遺骨まじりの土砂採掘問題も、くすぶっています。
闘う現場が多くなり、参加者が限られた人になりつつあるとき、盛り上げる集会が必要です。オール沖縄が6月からなんども第1土曜日、第3木曜日にゲート前の県民行動を提起しましたが、ほとんどコロナのためつぶれました。
しょぼい闘いのなか、知事選を迎えました。意気があがるよう、9月3日に那覇で県民大会を開くことを計画し、新聞チラシとして告示する算段でしたが、なんと何年ぶりかで台風が沖縄本島近くを通ると、3日は吹っ飛びました。
意気が上がらない上、私はこの1カ月間の間に辺野古で闘う知人を3人、亡くしました。1人はガンを患いながら、古書店を生業とし闘ってきた女性。1人は詩人、最近は季刊誌『赤木』を発行し、それで抗った我が先輩。80歳半ばで倒れました。
前県議会議長の死
3人目は、県会議議長を務めた新里米吉。彼とは4年間、教職員組合で一緒に仕事をした仲。私より4歳ほど年下でしたが、私よりはるかに運動を、政治をよく理解し、意見が違うグループとも話ができる人物でした。
そんな能力があり、県議会議員として嘱望されたのは当然の流れでした。彼の議員としての活動で記憶に残るのはオール沖縄として、革新と言われた人を説得し、保守だった翁長さんをかつぎ出したことです。
県民投票の時、保守の首長は投票を嫌がりましたが、投票の選択肢を2択から3択に替え自民を説得し、なんとかほぼ全県投票に持って行ったこと。さらに翁長知事が病にたおれ、後継者で苦しんでいたとき、玉城デニーを知事候補に、当選させたことが思い出されます。
県議会議長を終え一市民になってからは、好きなバレーボールに、歌に遊ぶと言っていましたがオール沖縄の共同代表に引っ張り出され、デニー知事再選に力を入れたばかりでした。
毎週木曜日には出身地が同じ音楽家、海勢頭豊さんと辺野古ゲート前に来ていましたが、ある日、海勢頭さんだけが来ていて彼は来なかった。そのとき私が彼の安否を聞くと、『月桃の花』の歌碑を作るため寄付集めに企業を回っていると説明を受けました。保にも革にも声が掛けられる、彼の真骨頂だと思っていました。彼から寄付の礼状が届いて3週間ほど経ってからだろうか、突然の訃報が届きました。
元気になれないことのもう一つ、ゴルバチョフの死も感傷にふけらざるを得ないものでした。反帝反スタ、人間の顔をした社会主義などの言葉を、思い出しました。ゴルバチョフは、故翁長雄志市長、知事の縁で3回も沖縄に来ています。辺野古新基地建設反対の立場でした。
♪辛いときはいつでも なあジュード 控えておくんだ すべてを一人で背負い込んだりしないで♪(ヘイ!ジュード/ビートルズ) (富樫守)