
古来、日本は男尊女卑?
再び、伊藤公雄さんの『男性学入門』から。
現在、日本は先進国の中で女性差別が最もひどい国として知られているが、日本の歴史を調べてみると、過去一貫してそうだったわけではない。
信長の時代に日本に来た、ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスは日本にかんする多くの文献を残した。特に『日本文化とヨーロッパ文化』(岩波文庫にも収められている)という著書では、ヨーロッパの女性に比べて日本女性の方が生き生きとしていたことが描かれている。
「ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴さは貞操である。ところが日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。ヨーロッパでは娘を家の中に閉じ込めておくが、日本では娘たちは両親にことわりもせずに1日でも幾日でも一人で好きなところに出掛ける。そうであっても名誉も失わなければ結婚もできる」。
「ヨーロッパでは夫が前、妻が後ろになって歩くが、日本では逆である」「日本では財産は女性も含め各自が自分のものを所有している。時には妻が夫に高利で貸し付ける」。
「ヨーロッパでは離婚の場合、夫が妻に言いわたす。日本ではしばしば逆である」。
「ヨーロッパでは女性が文字を書くことはあまり普及していない。日本の高貴の女性はそれができなければ価値が下がると考えている」(『源氏物語』はルイス・フロイスの時代よりもはるか昔に書かれた世界最初の長編小説だ)。
「ヨーロッパでは女性は馬に乗る時、横鞍する。日本の女性は男性と同じ方法で馬に乗る」。
「ヨーロッパでは女性がブドウ酒を飲むことは礼を失するとみなされる。日本の女性の飲酒は普通のことで、祭りの時にはしばしば酔っぱらうまで飲む」。
戦国時代の女性たちは、経済的に自立し、自由な意志に基づいて行動していた。男尊女卑の文化は、日本古来の天性のもの、不動のものでは断じてないのだ。
産業革命で男性優位に
資本主義社会をもたらした近代の産業化は、男は賃金労働者として外で労働し、女は男の労働を陰で支える(シャドウワーク)という構造を生みだした。日本の資本主義的発展の初期においては、女性や子どもの労働が実に非人間的に利用され(女工哀史)、それが富国強兵の基礎となった。
その後、産業労働は筋力や体力で勝る男に割り当てられるようになり、女性の労働は次第に排除され、男の労働が最終的に選択されていった。産業社会は、健康な男性労働力を安定供給するための労働力再生産労働を必要とし、それを割り当てられたのが女性だった。再生産労働に賃金が支払われることはない。女性は、夫による男性支配と産業資本による搾取という〝二重の搾取〟のもとにおかれた。
男の労働が生産的=公的な労働として社会的に価値のあるものとされる一方で、家事・育児・介護といった女たちの労働は私的な無償労働で価値なきものとされた。こうして男性の女性に対する優位が強化されていったのだ。
高度産業社会と
ジェンダー
しかし生産労働中心社会から、〝サービス〟や〝情報〟を軸とする産業への移行は労働の形態そのものを変化させた。いまや近代産業社会の中軸だった第2次産業の労働者数は、第3次産業のそれを大幅に下回っている(70年の段階で半分)。パソコンの操作に「男の筋力」は必要ない。労働の形態がジェンダーレス化したのだ。
労働力の需要が「人口の半分」(男だけ)でまかなえた時代は終焉を迎えた。資本主義はいまや労働力・消費者としての女性の「活用」に向かっている。
「男性原理」で運営されていた社会は、人間からゆとりを奪い、人間性を疎外し、さらに地球環境を破壊してきた。この200年ほどの男性中心の産業社会の見直しは、いわば〝文明史的な課題〟として登場している。
この現実が「男性原理」の中にどっぷり浸かってきた男たちにはなかなか見えないが、男性中心社会から疎外されてきた女性たちは敏感に反応している。環境保護、働き過ぎ社会の告発、社会福祉の推進、消費者運動 …… 女性の歴史的登場が求められているのだ。
『男性学入門』の著者(男性)はこう締めくくる。我等男たるもの、この〝文明史的転換〟を「客観的」に見つめ直し、それこそ「男らしく」「いさぎよく」古い「男らしさ」のこだわりから自由になれるのだろうか、と。
(つづく)