私は長崎市に生まれ、20歳まで長崎で育ちました。この本の著作者・高瀬毅氏も長崎市生まれ、後に東京でジャーナリストとして活動してきた方です。一旦生まれたところを離れ、そこからあらためて地元の歴史の真実にむきあう感覚は、とても共感するものがありました。 
 この本では、同じ被爆都市として、広島には原爆ドームが遺構として残っていて、反核反戦のシンボルとなっているのに、長崎には原爆の悲惨と残酷を刻印するような歴史遺構がないのはなぜなのかという疑問をテーマとしています。
 10年前に長崎に帰省した際に、長崎駅前の本屋で、偶然この本を見つけて読んでみました。長崎で生まれて、育った人間でありながら、全く知らなかったことが多くありました。戦争の記憶と記録の問題であり、とても今日的な点もあり紹介したいと思います。
 
戦略的重要性は
 
 1945年の夏、第二次大戦に勝利しつつあったアメリカ軍は、原爆投下について、いくつもの選択肢をもっていました。アメリカの砂漠での実験に成功した原子爆弾による実際の爆撃をおこなうのか否か。目的はなにか。爆撃はどの都市を標的におこなうのか。爆撃は何度おこなうのか等々。
 そういった点で、米軍の記録によると、長崎という町は、決して米軍の戦略として最重要とは言えませんでした。8月6日で広島の爆撃を終えた米軍にとって、二回目の投下となる8月9日の米軍の爆撃の第一目標は北九州でした。テニアン島から出発した爆撃機の一団は、一直線で北九州にむかっていたそうです。それが天候の影響で第二候補の長崎に急に変更になりました。しかも第二候補だった長崎でも天候は決して安定しておらず、長崎の中心市街は厚い雲に覆われていました。その時に長崎市の北部にある浦上地区の上空だけに雲の切れ間が生じ、そこだけが目視して爆撃することができたために、長崎の浦上地区に原爆は投下されたと米軍の記録には残っているそうです。人の命、町の運命は、ちょっとした偶然によって変わりました。
 しかし今なお、「なぜ広島・長崎に原爆が投下される必要があったのか?」という問いは、繰り返し問われ続けなければなりません。アメリカは、今もなお原爆投下に対する反省も謝罪も公式には表明していません。「第二次大戦の終結にはあくまでも必要だった」という公式の立場は、いささかもゆらいでいません。現在もなお、数千発におよぶ核兵器を所持して、いつでも発射できる態勢にあります。
 
キリスト教布教の歴史
 
 長崎の浦上地区では、隠れキリシタンが二百年以上にわたって続いてきた歴史があります。戦国時代から江戸時代初期まで、キリスト教信仰が全国に拡がっていましたが、徳川幕府による禁止令がだされ、制度的にキリスト教信者の存在は全国一律に許されなくなりました。キリスト教信者たちは、それから二百年以上にわたる「地下活動」をよぎなくされ、長崎でも、近郊農村の裏山の洞穴で口伝で祈りを捧げてきたそうです。
幕末に長崎に西洋人の居住区ができ、教会が開設されると、長崎近郊の隠れキリシタンの人びとが、当時のフランス人神父に自分たちの素性をわざわざ明らかにするために出向いていきました。長崎の港にあった大浦天主堂のプチジャン神父は、この出来事を260年をへた「信徒発見」として、バチカンに報告しました。このことは当時のヨーロッパで一大ニュースとして報道されたそうです。しかし、幕末から明治維新の頃の宗教政策はいまだ強圧的であり、浦上のキリスト教信者たちは、その後もくりかえし弾圧を受け、全国各地に流罪になり、そこで拷問にあい、多くが死んでいきました。そうした深い傷をもった長崎の浦上地区の歴史がありました。   (秋田勝)