「性暴力そのものが、ロシア兵による武器としてもちいられている」「戦争は祈りだけでは止まらない。陽に灼かれつつデモに加わる」(東京都、十亀弘史/2022年9月11日『朝日』)。「軍隊は軍隊しか守らない、交戦国のどちら側でも」(東京都、十亀弘史/2022年5月29日『朝日』)。
10月10日、ロシアが2014年に一方的に併合したウクライナ南部クリミア半島とロシアを結ぶ「クリミア橋」の爆発を、ウクライナの「テロ」と規定し、「テロ報復」としてウクライナ全土を無差別に、市民へミサイルで攻撃をした。ロシア軍のウクライナ侵略の只中、ロシア軍によるウクライナ女性への凄惨な「性暴力」が次から次と報告されている(2022年6月23日/『朝日』)。
最年少は13歳の少女が、民家の地下シエルターでロシア兵から性暴力を受けたほか、母と娘が交互にレイプされたケースもあるという。性暴力については「(被害者が)対面で自分が性暴力されたと捜査当局に伝えることは、一番難しい」。性暴力の被害者は、数限りなく埋もれているのだ。被害者は数千人にのぼるという。ロシア軍が占拠していたキーウ州のブチャでは性的暴行も数多くあったとされる。ロシア兵に殺害された女性は、直前に性的暴行を受けていた可能性があるという。性暴力そのものがロシア兵による武器とされ、戦場地ウクライナの女性の命と人権を奪う残酷な戦争がもたらされている。

日清、日露から満州へ
1905年の日清、日露戦争の勝利を経て、朝鮮そして満州で権益を手にした日本。31年、満州事変を足がかりに翌年32年、清朝最後の皇帝博儀を元首とする「満州国」を成立させた。現在の中国の東北三省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)、そして内モンゴル自治区東部からなる広大な領域である。「満州国」の樹立に暗躍したのは、満州にいた日本皇軍の関東軍だ。満州に駐屯し、日本の対中国政策の先兵的役割を演じた植民地軍隊だ。29年からの世界恐慌、農村経済への深刻な打撃、満州開拓移民、棄民政策への必要性が考えられるようになった。「貧乏人は満州にいけ。次男、三男坊は強制的だった」。32年、東北を中心に在郷軍人約500人からなる、第1次の試験移民が満州に送り出された。
黒川開拓団もその一つだ。41年に旧黒川村(現在の白川町)の住民は順次、吉林省陶頼昭(とうらいしょう)に入植した。129世帯以上、650人以上が入植となった。45年8月9日、「日ソ中立条約」を破棄しソ連軍が参戦、満州国に侵攻した。関東軍は、百数十万の目本人居留民を見捨て、われ先に逃亡したのだ。「軍隊は住民を守らない」という法則が、沖縄戦と同様「満洲」の地においても貫徹された。関東軍こそ「天皇の軍隊」「国体識持軍」そのものであり、もちろん決して人民の軍隊などではなかったのだ。開拓民はソ連軍の侵攻による身の危険にさらされ、悲惨な逃避行が始まった。屈強な青年層はもちろんのこと、父親も関東軍に根こそぎ動員された後であり、取り残されたのは老人や婦女子ばかりだった。

棄民にされた女性たち
1945年夏、満州の地で、女性は「人柱」に。ソ連軍の暴虐は、満蒙開拓移民に強奪、強姦、虐殺をもたらした。逃げられない苦悩に耐え兼ね、開拓集団内では強制自決さえ起こった。満蒙開拓移民は、国家からも棄民として放置され、地獄を体験した。娘がソ連兵に連れていかれた時、父親は何の助けもできなかった。
黒川開拓団もソ連軍から逃避行を重ねた。開拓団として生き延びるために、開拓団幹部により未婚女性はソ連兵に「人柱」として差し出され、「性接待」を強要強制された。18歳以上の未婚の女性は、ある意味で死より辛い宣告をされたのだ。加害国でもある満州、その最前線守備隊である開拓団が、生き延びるために未婚女性に戦時性暴力に「同意」させた。さらに、戦時性暴力そのものを強制させ天皇制国家の枠組み、国体護持を確実なものにしようとした。
「接待」した女性たちは、開拓団を救ったにもかかわらず帰国後に、「汚れた女」という差別と偏見を背負わされる。当の開拓団にいた男性たちから「減るものじゃない」「ロシア人にやらせたくらいなら、俺たちにも…」と壮絶な二次加害に苦しめられた。その経験を「語るな」と口を塞がれる。別の開拓団にいた女性たちが「貞節を守って自決した」と称賛する言葉を聞かされる。国から見捨てられた“棄民”の悲劇が、新たな悲惨を生む構造となったのだ。(参考『ソ連兵に差し出された娘たち』平井美穂著・集英社、『告発』川恵実著・かもがわ出版)

戦後は「米軍慰安所」が
「1945年夏、戦後日本の地。女性が「国体護持」のために再び『人柱』とされた。8月29日、前日に東京郊外の厚木基地に米軍の先遣部隊が着陸した。この日、新聞に奇妙な求人広告が出た。特殊慰安婦協会名で「職員、事務員募集」と大きくうち出されていた。それが、占領軍相手の『特殊慰安婦施設』であり、職員ならぬ『接客婦』の募集であることは、大ていの人の目にも明らかである」(『ソ連が満州に侵攻した夏』半藤一利著、文芸春秋)
敗戦直後、日本政府によって「特殊慰安婦施設協会(RAA)」がつくられた。「連合軍兵士による強姦や性暴力を防ぐために5万5千人〜7万人の女性を集められ、全国に連合軍向け慰安所が設立された。「貞操を守るべき女性」と、「連合軍の性の相手する女性」として日本政府自身が後者の女性を差別的に、国体護持と敗戦国日本の支配階級を守るために、動員した。46年3月に、RAA施設は突然閉鎖された。
50年、朝鮮戦争が始まった。「日米安全保障条約行政協定」に基づく両国行政協定により、米軍は日本の各地に米軍基地をつくり、その基地周辺に米軍兵士のために5日間の休養期間を過ごすために、52年に「Rest and Recuperation Center」(RRセンター)がつくられた。この施設は、あくまで休養のための娯楽施設なのだが、民間業者が基地周辺に米軍相手に金儲けをするため周辺には歓楽街(カフェバー、ギフトショップ、飲食店、キャバレーなど)が立ち並んだ。全国から「性的サービス」を提供する女性が集められた。

基地とRRセンター
戦場に赴く米軍兵士たちの性欲はやむを得ないものとして、「守られるべき女性」と「彼女たちを守るべき女性」の構図がつくられた。日米合作の組織的な差別的性暴力が始まった。奈良のRRセンターは、周辺住民による取り組みにより1年4か月で神戸に移転をしていった。神戸移転の前に、西宮・浜甲子園の米軍キャンプ場に設置されようとしていた。西宮のPTA連合会をはじめとする移転反対の運動は、「児童の教育上、青少年家庭に及ぼす影響は甚大である」「社会の風紀が乱される」とし、RRセンターの移設を許さなかった。
しかし、この移転反対の取り組みそのものは、アメリカの朝鮮戦争への軍事介入、朝鮮戦争の兵站基地としての日本、日米合作の軍事的な性差別と性暴力を問うものではなかった。米軍基地が密集する沖縄では、どうであったのか、RRセンターそのものが、米軍基地と共に移動している。(2022年1月/世直し研究会、奈良女性研究会の松村徳子さん講演『戦争と女性〜奈良RRセンターの問いかけるもの』『西宮現代史第1巻』参考) (嘉直)