
熱量の少ない国になって来ぬ 学生運動もデモも少なく(俣野右内、4月5日:朝日歌壇)
国会前デモが絶えることなく開かれている。2月27日3600人、3月10日8600人、3月25日2400人、4月8日3万人。全国160カ所以上で改憲反対の集会が行なわれた。4月19日の国会デモは、「NО WAR!憲法変えるな!4・19国会正門前大行動」とされ、市民団体「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」と「9条改憲NО!全国市民アクション」の2団体が共催した。安保関連法の成立後、毎月19日に、同法廃止や憲法改悪反対を訴え開催されている。
神戸、三宮マルイ前も、4月8日450人、4月11日250人が「憲法変えるな!NО WAR!」と訴えた。3月25日の国会前デモ参加者の一人は「憲法は、日常の中にある小さな幸せを守るため絶対に必要なもの。手放してはいけない」と訴えている。
「選挙の勝利者」に委ねない
そうだ、憲法は日常のなかにある、ほんの小さな幸せを守るために絶対に必要である。みんなの笑みのもと語るに語れない苦悩や、凄絶な風景をかかえながら「倒れるわけにはいかない。倒れてしまうわけにはいかない」と、うめきながら生きづらい今を這うように、小さな幸せを守り、生きている。私たちは、侮辱されていることが身をしみてわかるではないか。権力の行使を「選挙の勝利者」(「多数者」の代表)に信託するだけでは、民主主義の活用ではない、民主主義の放棄である。
選挙の「一応の勝利者」の言動を絶えず監視し、個々の人がそれぞれのやりかたで不正とたたかい勇敢に発言しなくては、民主主義なるもののもとで生きるすべはない。政治から疎外され、政治に侮られている私たちの、個人の痛苦な自覚と反抗そのものにかかっている。
日本初の女性首相は支持を得て 消えゆく炭火のごとき九条(夏野いづみ/2月15日/朝日歌壇)
高市政権は、「武力こそ力だ」「軍事力が一切を決する」というトランプの「モンロー主義」そのものをまね、「アジア版モンロー主義」へと踏み出そうとしている。かつて日本は、1930年代、英米帝国主義に対抗しつつ中国、東アジア、東南アジアの植民地化を試みた。東南アジアの資源剥奪から「満洲国」建国、さらにユーラシア大陸へのヘゲモニーまで追求した。自国の経済的自給確立のためにだけに、主権国家システムを踏み越え「大東亜共栄圏」という大権益「秩序」が目指された。
武力行使を言う高市首相
高市首相は、安倍元首相の「積極的平和主義」なるものを受け継ぎ、「台湾有事が存立危機事態に該当しうる」と、「自衛隊が武力行使できる、日本が戦争できるのだ」と言いきった。高市首相の強烈な参戦意思が示された。改憲、憲法9条を破棄し、自衛隊を「国軍」とし一歩も二歩も歩み出る「軍事力こそ力だ」を示そうとしている。
さらに、国家安全保障会議(NSC)で、防衛装備品の輸出ルールを定めた「防衛装備移転三原則」と運用指針を改定した。武器完成品の輸出を非戦闘目的に限定する「5類型」を撤廃し、殺傷兵器の輸出を容認、米国などを念頭に紛争中の国への武器輸出を認めた。日米同盟の強化と、国内の防衛産業基盤強化につなげる狙いだ。「死の商人」が跋扈する国へと舵を切ろうとしている。
東アジアから、東南アジア、インド太平洋に及ぶグローバルサウス諸国に武器を売りつけ、米国に次々と強要された新自由主義的要求を唯々諾々と受け入れながら、ナショナリズム、反グローバリズム、反移民、反民主主義と排外主義思想を取り入れ、軍事力強化と一体に国民を統合しようとしている。「戦争をする国」へ突き進んでいるのだ。私たちを、どこに導こうとしているのか。それは、直ぐ目の前に見えているではないか。そこに、きている。

空母ではしゃぐ首相とは
高市首相は、紛れもなく「軍国少女」だ。米原子力空母「ジョージ・ワシントン」の艦上で居並ぶ米兵を背に、ホワイトハウスでも、トランプと一緒にはしゃぎ回った。「軍国少女」が、そのまま「大人」になったのか。かつての国会答弁では、「日本国民全体の反省があると決めつけておられるのですけれども…、少なくとも私自身は当事者ともいえない世代ですから、(過去の大戦について)反省なんかしておりません。反省を求められるいわれも、ないと思っております」と発言した。日本の、中国への軍事進出は「侵略ではなく、自存自衛だ」と主張した。
その上、「殺してもよい、犯してもよい」とする民族をつくりだす戦時イデオロギーを強めている。植民地支配と侵略戦争を起こし、数え切れない命を奪ったこの国で、加害の歴史を直視しようともしない政治家、「軍国少女」の高市が「国の顔」になっているのだ。「台湾有事」をめぐり、戦争を誘発しかねない発言をした人物が、この国の舵を握っている。国家の最大の暴力である戦争権限を、まんまと掌中におさめた。大変な事態だ。
「転げては」ならない
戦争という最大限の暴力に対抗する「反暴力」とは何か、考え込んでしまう。まさか、まさか、冷笑哄笑しているうちに、事態はどんどん進んでいる。無抵抗社会は堕ちるところまで堕ち、最後のよりどころ「内面」まで権力に明け渡すのか、否か、どうか。名もなき者、力なき者、貧しき者のために、私たちは問い続けたことがあるのか。「戦争状態は、人間の行為そのものに影を落とす」とすると、今がそうである。
「他者の痛み」を感じるとることほど難しいことはない。貧困、差別、暴力からくる痛みを、(自らも)我がこととして悩みきるのは容易なことではない。幻聴などではない。戦争への危険は、拡大している。戦争の足音が聞こえる。非核三原則を事実上死文化させ、はっきりと「戦術核保有」を唱える者が現れてきた。憲法9条を、多くの人が語らなくなった。侵略の歴史を忘れることなく、子々孫々まで語り継ぎ、消し去ってはならない。かつての天皇絶対視のもとにつくられた「國體」の完成をも目指そうとする者まで現われたのだから。
転げる落ちるところまで転げてしまってはならない。そうは、思わないだろうか。(嘉直)
