1937年「南京大虐殺」
言葉って疚しいときは長くなる 「殺傷能力ある装備品」(朝日歌壇、4月5日)
1937年に南京虐殺が行なわれ、日本軍は30万人とも言われる多くの中国人を殺し、放火と略奪とレイプを重ねた。最近では、「数万ではないか」と言う人もいるが、いずれにしろ一人一人の人を殺し、未来を奪い、名前を奪ったのだ。その翌年、1938年に国家総動員法が公布された。読んでみる。
1938年の国家総動員法
第1条「本法に於て国家総動員とは、戦時(戦争に準ずべき事変の場合を含
む。以下之に同じ)に際し国防目的達成の為、国の全力を最も有効に発揮せしむる様、人的及物的資源を統制運用するを謂ふ。(中略)
第4条「政府は戦時に際し国家総動員上必要あるときは、勅令の定むる所に依り、帝国臣民を徴用して総動員業務に従事せしむることを得、但し兵役法の適用を妨げず。(中略)」
第6条「政府は戦時に際し国家総動員上必要あるときは、勅令の定むる所に依り従業者の使用雇入、若しくは解雇又は賃銀、其の他の労働条件に付必要なる命令を為すことを得(中略)」
第20条「政府は戦時に際し国家総動員上必要あるときは、勅令の定むる所に依り、新聞紙其の他の出版物の掲載に付、制限又は禁止を為すことを得」
「緊急、特例」言葉の軽さ
これは、既に死滅した法律のようでいて、実はそうでもないのだ。「緊急」とか、「例外」とか「特例」とか言い古されたことばの軽さは、国家の得意技か。いや、国家の普遍であり、本性そのものである。
現憲法下であっても、国家総動員法的な非道の実施が、熾烈な抵抗のないときは、易々と可能になるということだ。
戦時を国家総動員として、「勅令」として、いつでも、どこでも発し、戦時に向かう国民総動員の体制をつくりだしてきた。これが緊急事態条項での国家総動員体制である。高市版「緊急事態条項」
高市早苗首相は、来春の改憲発議に向け、大規模災害などを国家緊急事とし、国会議員の任期を延長し、内閣に権限を集中させる「緊急事態条項」の議論を先行させている。「あらゆる事態に国の運営を維持していくための緊急事態条項の整備は、日本国憲法の未完を埋め、国の形を整えることにつながる」などと嘯き、地方自治、住民自治、国民民主主義の一切を破壊しようとしている。
とんでもないことだ。武力攻撃事態法と緊急事態条項とを、思わず重ねてしまう。武力攻撃事態法では、戦争遂行の一切の権限が内閣総理大臣に集中され、首相独裁体制がしかれ、戦争大権が付与されるのだ。かつての天皇の「詔勅」である。国家総動員体制の構築であり、地方公共団体は戦時体制への軍事統制を受ける。民間空港、港湾は、自衛隊軍事使用が可能となる物資の輸送、兵員の輸送も優先され、有事法制の最大級の対象となる。治安維持法や戒厳令の復活さえ直結するのではないかという内容を含んでいるのである。
「戦争放棄」「交戦権否認」
憲法の定める平和主義の原理,憲法9条の「戦争放棄、軍備と交戦権の否認」が否定されていく。緊急事態が宣言されると、個別的自衛権の枠を超えた、日米共同の「集団的自衛権の行使」となり、憲法規範の中核をなす基本的人権保障原理を変質させる重大な危険性を有する。わが国に対する攻撃を招く危険を生じさせていくと思わざるをえない。そこまで、考え込んでしまう。緊急事態条項の成立など許してはならない。
私たちを守る戦後民主主義の最終的な決壊が、いま始まった。どうする」…。2026年、修復しようもない堤防、戦後民主主義の最終的な決壊が始まった。曖昧な概念の下で拡張された「武力攻撃事態」における自衛隊の行動は,憲法の定める平和主義の原理,憲法9条の「戦争放棄,軍備及び交戦権の否認」を否定する。
「周辺事態」「集団的自衛権」
周辺事態法と連動し,米軍が主体的に関与する戦争、あるいは紛争に我が国を参加させることにより,日米の共同行動、すなわち個別的自衛権の枠を超えた「集団的自衛権の行使」となり,我が国に対する攻撃を招く。
世界は、次々と新たな戦争をつくりだしている。日本でも、安保3文書を改訂し、先取り強化しようとする。高市政権は「侵略を抑止し、自国を防衛するための軍事力の強化は正当であり、必要である」と宣伝し、非核三原則の「建前」をもかなぐり捨て、改憲・3文書改定論議で「核持ち込みの公然化」「核共有」「原潜保有」「殺傷武器の輸出」にまで踏み込もうとしている。
9兆円の「防衛」予算
防衛省は、2027年度当初予算案の概算要求で、過去最大となる約8兆9千億円(昨年度比、3千3百億円増)を求める方針を固めた。安全保障関連3文書の改定を前に、中国包囲の軍事対決、AI(人工知能)などの活用、「新しい戦い方」?(?は筆者)への対応、自衛隊の「持続的な対応能力」の向上など、具体的な金額を示さない「事項要求」が多く盛り込まれている。概算要求予算案に計上される軍事費は、さらに大幅に膨らむ見通しだ。
東アジアから東南アジア、オーストラリアから太平洋、インド洋へとトランプの「ドンロー主義」を真似る、かつての「大東亜共栄圏構想」ではないが、アジア版モンロー主義で、中国包囲網を作ろうとしている。
9条は、きれい事か
9条の理念を「きれい事」としてうち捨てるのか、敢然と戦える共同体を確立するのか、否か。また、迫り来る戦火に怯えて尻尾を巻いて逃げるのか。ますます台頭する強者の思想が、大手を振っている。名もなき者、力なき者、貧しき者のために、必死になって闘ってきたことがあるだろうか。9条を理想の盾とし、死ぬ気で闘争してきたのか。
2026年になり、世界から置き去りにされてはならないという思いにかられ、「9条改憲反対」「NO WAR」と書かれた1枚のアピールボードを掲げ、街頭に立ってみた。なぜ、こうも私と私たちは世界から分断をされているのかを考えてみた。世界の今と、私の今を重ねてみた。だんだんと、この1枚のアピールボードの重みが増してくる。戦後といっしょに生きてきた、一度たりとも自省することもなく、自己変革せず、無益な行為を繰返してきのではないか。冷笑と嘲笑にさらされ、この飽きることのない繰り返しのなか、70歳の中盤を一挙に過ぎようとしている。
正直、言うこと、為すこと、ひたすら繰り返しばかり。そうした自分への蔑みの気分が、ひたすら体中に充満をしていく。慎みも節操もなく変容をしつづける世界への侮蔑の念が、どうしても消えない、拭えない。
本気の「9条改憲」阻止へ
ならば、9条を本気で実践してみようではないか。日本の戦後は、今なお戦時下であり、新たな戦前であることが明らかになってきている。ますます強まっている。新たな戦前というからには、これから戦争が始まる。高市首相は言う、「日本国は自衛のための戦力を持てる。日本国民は、国防の義務を負う」…。
「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権の否認」を、「どうしょうもない平和主義」などと言われようが、徹底的に平和主義を実践してみたらどうか。どう思う。(嘉直)(つづく)




